地名探訪 「村岡史跡探訪 ~藤沢と鎌倉の境界地域を訪ねて~」

投稿日
執筆者
田中賢史
掲載元
ミニだより120号

2026年6月23日(火)、30日(火・振替日)

いきなりですが、一昨年の遠藤探訪以来の地名探訪でしたが、今回は散々でした。1日目の6月23日は、朝から自転車がパンク。せっかく準備もして早起きしたのに。急遽、急いで川名まで車で1時間。さらに2日目は荒天で中止。その連絡などに手間取り、振替日の30日は自転車で30分で着きましたが、参加者は半分になってしまいました。

今回の探訪地域は村岡の南部としました。村岡は例えば埼玉・東京方面から南下してきたとして、戸塚を経て、鎌倉へと続く要衝です。村岡周辺という規模で見ると、玉縄城へのルートは北部(柄沢・渡内)であり、今回の散策は南部(川名・小塚・高谷)ルートということになります。なので、遠藤探訪のときと同様、今回も現在の行政区画で考えてもあまり意味がなく、鎌倉へ続く道への防衛ラインとしての村岡南部地区と、その周辺の主だった史跡、神社を巡りました。

まず川名御霊神社へ集合し、神光寺・横穴墓群を見てから、宮前御霊神社へ。鎌倉道を経て、東海道線を跨いで村岡市民センターへ。ここからは起伏があり、高谷大神宮、村岡城址公園、最後に天嶽院まで探訪しました。川名にしても宮前にしても高谷にしても急な石段があります。この辺は相模川と柏尾川が合流する地点でもありますので、もし現代のような護岸・治水設備や雨水処理設備がなければ、雨の時には氾濫するのがむしろ常態で、高い所にないと水没してしまいます。当初から懸念していた6月下旬の暑い日中、坂や石段を登ったり下りたりしたわけですが、それでも熱暑猛暑までにはならず、まずまずの気候でした。

①神光寺にて住職によるお話
➁神光寺の十一面観音立像
③徳寿院跡(下見をしたのは桜の頃)

登場人物は鎌倉権五郎や村岡良文から始まり、源頼義や源義家です。源義朝や頼朝、義経の時代は源平合戦などと言われますが、それは軍記物や講談としてはわかりやすいのですが、必ずしも純粋に源氏vs平氏というのは当てはまりません。頼朝が決起した石橋山の戦いでも、頼朝軍にも源氏と平氏は混在し、きれいに源か平で別れているわけではないのです。平家側の大将・大庭景親の大庭四兄弟も2-2に分かれました。源頼義、義朝の前九年・後三年の役の頃から、源義経の奥州逃亡を経て、源頼朝による奥州藤原氏討伐と言う源氏による因縁の奥州100年戦争の話も、もっとしたかったのですが、宮前御霊神社でも蚊が多くて断念。また、自分にとって初めてのNHK大河ドラマは「太平記」でして、その時は子供だったので、まったく藤沢近辺の土地という認識がなく、後にあの新田の軍勢が海を渡った稲村ヶ崎という所は江の島の先にあって、新田義貞に関係があるらしいと知ったくらいでした。新田軍は5月8日に群馬県太田市の生品明神で決起集会を開いた後進軍し南下、途中、分倍河原の合戦を経て、多摩川を渡河し関戸へ。5月17日に藤澤宿着、遊行寺に宿陣しました。対する鎌倉幕府軍は第16代執権北条(赤橋)守時が鶴岡八幡宮を出陣します。彼は足利高氏の正妻の兄です。山内を経て、洲崎(山崎)、青船(大船)に宿陣します。つまりJR線沿いにそれぞれ進軍し、5月18日に洲崎の激戦になります。さらにここから一部隊が極楽寺方面へ。指揮官・大館宗氏、幕府守備隊・大仏貞直ともに戦死しつつ、有名な渡渉伝説では、新田軍の鎌倉市街地への侵入を許してしまいます。

で、それにゆかりのある兜松も見に行ったのですが、もともと神戸製鋼の敷地内にあるのに、さらに周りは当日工事中。さらに東海道線を越えるときも下見の時は行けたのに、当日は村岡駅工事をしていて迂回して跨線橋へ。昔はドローンはありませんので、人間が高い場所から、自分の目で直接軍勢の動きなどを見て確認するしかありません。そのためのそういった、この地区に点在するポイントを巡る、ということがテーマのうちの1つでした。結果的に、距離的にも時間的にもちょうどよく、参加者の方の年齢や当日の夏日の中を歩くことを考えるとちょうどほどよいコースになりました。また、参加者の方から「こうして歩いてみると、けっこう起伏があって疲れるね。」との声。まさにそれを実感していただければ何よりでした。

④鎌倉古道の案内板がまだ朽ちていない頃(2012年)
⑤神戸製鋼内の兜松(2012年)

そして村岡城址公園周辺の住宅地から東海道線方面の眺めはなかなかの風景です。遠くに相模湾も見渡せます。そういう場所だから重要ポイントが点在していたわけですが、「見せるための城」などは、もっとはるかに時代の下った頃の話で、平安末期から戦国期までは、城に求められるのは機能性・実用性のみ。装飾性はまったく不要、むしろ害になる可能性すらあります。したがって砦、館などは、城と言うより、基地に近いものです。この辺では玉縄城がまず中核をなし、その周辺に村岡城、高谷砦、御幣砦、大塚砦などが点在します。それぞれ見張り場や狼煙台などの役割があり、公民館や生活拠点、政治・軍事拠点、資材置き場、スタッフの集合場所、つまり常設の事務所です。例えば現代でも出陣する候補者は、選挙の時に選挙事務所を構えます。それに近いイメージです。したがってそれぞれ単独の拠点を巨細に見ても余り意味がなく、そもそもアイパークがそびえ建ち、また村岡新駅が建設中の今、周辺はすっかり住宅地になっており、痕跡がまったくありません。大きな寺などは、普段は寺だが、いざという時には軍事転用することがあり、二伝寺砦などはおそらく、立地場所としても、そのタイプではなかったかと思います。天嶽院にしても、今回初めて来られた参加者の方は、「こんな大きなお寺が藤沢にあったんだ。」との声が。天嶽院は早雲禅寺というくらいで、玉縄城にしても、小田原北條氏にゆかりがあります。ここも墓地のある高台から藤沢駅周辺の市街が見渡せる場所です。

⑥工事中の村岡新駅
⑦高谷大神宮から高谷小学校方面の眺め
⑧村岡城址公園からの眺め
⑨天嶽院を見学
⑩天嶽院からの藤沢市街の眺め(2010年)
⑪天嶽院からの藤沢市街の眺め(2026年)

そこで最後に、せめて、駿府の名家・今川氏、そこから当初は客将として派生、やがて相模を制した北條氏、そしてそれらに甲州の軍事国家・甲斐武田氏の、三つ巴の親戚関係を少しお話しました。互いに親戚でもあり、ときに同盟国、ときに仮想敵国でもある関係です。さらに越後の上杉、常陸の佐竹、安房の里見、その他宇都宮、小山、そもそも関東公方足利家と管領の扇谷と山内の両上杉家が、ああでもない、こうでもないと応仁の乱より以前から関東はグチャグチャでした。それを統一した関東の覇者は北條氏でしたが、最終的には今川家も、武田家も、北條家も滅亡しました。奥州藤原氏は頼朝により4代で、小田原北條氏は秀吉により5代で、それぞれ約100年の勃興の歴史に幕を閉じました。

その後、関東に入植した徳川家康は、北條氏からは既に関東での良質な統治フォーマットができているので、それをそのまま流用しての民政、今川家からは中央官僚制・組織統治システムとしての家政、そして武田家の軍政、それぞれの長所をいいとこだけ全部素直に採用しました。まだ江戸幕府ができるかどうかもわからない段階でのことです。結果的に徳川家が全国統治することになりましたが、それはもうしばらく後のことです。

⑫それぞれの長所は徳川家へ引き継がれた

と、ここまで来ると話が大きくなってしまいますが、鎌倉幕府成立期、そしてその終焉期、また室町後期~戦国前期、それぞれの時代に、ここ藤沢から鎌倉、その間にある村岡地区も、それらの歴史に多少なりとも関わりのある場所であったわけで、今回はそんな身近な歴史の足跡を、ホントにちょっとだけでしたが巡ってみました。ご参加された皆様はいかがでしたでしょうか。今回ご参加された伊藤一美先生からも最後に「初めて聞いた、知らなかったこともあり、大変勉強になりました。ありがとうございました。」などと、わざわざご丁寧な挨拶をいただき、背中がムズかゆいのを通り越して、こんな急ごしらえでキリハリしたようなヤッツケ探訪だったのに、なんともキマリが悪かったものです。

最後に旗持ちなどいろいろ細かい点でご協力いただいた役員のみなさまに、そして今回ガイドを、役員OBの山本雅博さんに手伝っていただきました。申し込み時期に家の法事が重なってしまい代わりにご対応いただいたり、前回探訪での史料提供、事前の打ち合わせ・下見から、神光寺や天嶽院への見学予約の連絡をしていただいたりと、大変感謝尽きません。ご協力に御礼申し上げます。

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