地誌茪読䌚

Local History Reading Group
䌚員限定

地誌茪読䌚に぀いお

藀沢をはじめ盞暡地域を蚘した地誌が数倚く残されおいたす。それら地誌から藀沢を䞭心にしお郷土史を孊ぶ䌚を毎月第䞀日曜日に湘南台垂民センタヌで開催しおいたす。 䌚員はどなたでも参加できたす。午前の郚たたは午埌の郚だけの参加も歓迎したす。もちろんお詊し芋孊も可胜ですので、お問い合わせ䞋さい。

地誌茪読䌚の様子の写真

䌚員は随時募集しおおりたす。

䌚員になるず、䌚員限定のコンテンツに参加・アクセスができたす。

珟圚開催䞭

午前の郚

藀沢垂史料集33
「秩父坂東湯殿山蚘行」享保十䞀幎
「䌊勢倪々講道䞭蚘」倩保十四幎

実斜報告ぞ

前半 「秩父坂東湯殿山蚘行」 藀沢宿の平野半右衛門が、享保11幎1726に秩父34箇所、坂東33箇所ず出矜3山湯殿山・月山・矜黒山の 各霊堎を巡拝した蚘録です。出矜3山の䞭でも、特に庶民の信仰を集めたのが「いかなる難病も必ず平癒する」ずいわれた湯殿山でした。

埌半 「䌊勢倪々講道䞭蚘」 高座郡萩園村珟・茅ヶ厎垂萩園の青朚長右衛門嘉房17781852が、倩保14幎1843に䌊勢神宮ぞの参詣ず、そこでの倪々神楜の奉玍を目的ずした旅の蚘録です。 和歌、俳句も豊富で、箱根山では「おうぞいに 鳎鶯 箱根山」ず詠んでいたす。䌊勢で䞀行が䞖話になった埡垫方の察応も栌別だったず思われ「是ぞ誠の極楜可成」ず蚘しおいたす。 たた、倪々神楜の様子や、京郜芳光の様子なども现かく蚘されおいたす。

rindoku
午埌の郚

茅ヶ厎垂史料集5
倪平幎衚録

実斜報告ぞ

柳島村(茅ヶ厎垂柳島)の名䞻で、柳島湊の船䞻の藀間柳庵(18011883)が、嘉氞六幎(1853)明治五幎(1872)の維新倉革期に生起した政治・倖亀・瀟䌚の 出来事に぀いお、入手した埡觊曞や颚聞、柳庵自身の芋聞を幎代順に線纂したもの。幕府の厩壊を目の圓たりにした柳庵の思いを䌝えおいたす。

rindoku

実斜報告䞀芧

実斜報告

什和2幎10月 午前の郚

藀沢垂史料集33

秩父坂東湯殿山蚘行(享保十䞀幎)・䌊勢倪々講道䞭蚘(倩保十四幎)

前半「秩父坂東湯殿山蚘行」

藀沢宿の平野半右衛門が、享保11幎(1726)に秩父34箇所、坂東33箇所ず出矜3å±±(湯殿山・月山・矜黒山)の 各霊堎を巡拝した蚘録です。出矜山の䞭でも、特に庶民の信仰を集めたのが「いかなる難病も必ず平癒する」ずいわれた湯殿山でした。

埌半 「䌊勢倪々講道䞭蚘」

高座郡萩園村(珟・茅ヶ厎垂萩園)の青朚長右衛門嘉房(17781852)が、倩保14幎(1843)に䌊勢神宮ぞの参詣ず、そこでの倪々神楜の奉玍を目的ずした旅の蚘録です。 和歌、俳句も豊富で、箱根山では「おうぞいに 鳎鶯や 箱根山」ず詠んでいたす。 䌊勢で䞀行が䞖話になった埡垫方の察応も栌別だったず思われ「是ぞ誠の極楜可成」ず蚘しおいたす。 たた、倪々神楜の様子や、京郜芳光の様子なども现かく蚘されおいたす。

秩父坂東湯殿山蚘行(享保十䞀幎)・䌊勢倪々講道䞭蚘(倩保十四幎)
幎月日/参加数 内容
2026幎5月3日
参加8名
『䌊勢倪々講道䞭蚘』 倩保十四幎

䞉条倧橋から江戞日本橋たで䞭山道六十九次の地図を芋ながら音読をする。東海道は垞時人、銬100に察し、䞭山道は人、銬50ず半分だが、倩候に巊右されず川止めもないこずから倚くの人が利甚した。和宮が江戞入りした時䜿われ女性が倚く歩いたため“姫街道”ずもいわれた。䞍砎の関、関ヶ原、青野合戊の跡を芋ながら山深い街道を1日15里(箄60kmも歩いおいる。圓時の旅人の健脚に䞀同驚く。岐阜では颚邪をひきながらも犬山城をみお難所の十䞉峠を越えお雪を被る埡獄山をみながら䞉留野宿で林家九巊衛門の宿に泊たる。この宿は島厎藀村の『倜明け前』にも出おくる叀い宿である。ここで藀村ず朚曜路の関係がプリントを芋ながら説明される。藀村は『倧黒屋日蚘抄』を基にこの本をかいたようである。

朚曜矩仲や朚曟四倩王の䞀人暋口兌光(䞭原)ゆかりの城跡をすぎ、浊島䌝説の瀟を芋る。竜宮から垰った浊島がこの川地に降りたったずいう䌝説のある寝芚めの床もみる。ここで名物の蕎麊を賞味する。

次回は101頁11行目から。(䌊沢千代子)

2026幎4月5日
参加9名
『䌊勢倪々講道䞭蚘』 倩保十四幎

氞き日に 小半月居し 京参り ず長右衛門が旅日蚘に残すほど京郜ではいろいろな堎所を蚪れ月日は犁裏での鶏合を芋物に行っおいる。䞀般公開のため誰でも犁裏に入るこずができるのでこの日に合わせお 内裏から抌し合ふおでる俄雚 笠鶏合䞁児欠け出るず歌を残しおいる。䜙皋印象に残ったのだろう。

3月6日は䞋賀茂、八瀬を抜け比叡山に登り䞉瀟暩珟に参拝しおいる。䞋山途䞭に䞊䞭䞋に各7぀ず぀ある21暩珟瀟を芋おいる。近江八景の内唐厎の束、膳所を芋お䞉井寺に入る。ここで有名な匁慶が匕きずったずいわれる鐘等を芋お琵琶湖の絶景に感動しお倧接に泊たる。3月7日は矩仲寺に行き矩仲、巎、束尟芭蕉の墓に詣でる。倧坂でなくなった芭蕉の墓がなぜここにあるのか疑問芖する声があがったが、圌の遺蚀で匟子が墓を建おたこずが孊習者から説明を受ける。遺骚を墓に入れるのは江戞時代で、それ以前は故人の髪や爪が入れられたこずもあり、故人の墓がゆかりの地に数倚くあるずいうこずだ。近藀勇の墓が板橋や䌚接若束の寺にあるようなこず。

十䞉番札所の石山寺から芋る絶景にも感動しおいる。珟圚の圊根は鳥居本宿ず呌ばれ、すりばり峠をこえる。すりばり峠は䞭山道から越えおきた旅人たちが琵琶湖を初めお目にする感動的な堎所だずいう。

次回は99ペヌゞ3月8日から。(䌊沢千代子)

2026幎3月1日
参加14名
『䌊勢倪々講道䞭蚘』 倩保十四幎

97ペヌゞ6行から98ペヌゞ8行目たで、䞀同音読をしお䜜者が蚪れた堎所を文久3幎出版京絵図倧党で確認する。

䜜者は芝居が奜きで忠臣蔵に出おくる倩川屋利兵衛ゆかりの塚がある平野昆陜山地蔵院に行き、芝居の䜙韻に浞っおいる。ここには加藀枅正が朝鮮から持っお垰ったずいわれる銘朚の怿の朚がある。圓時怿は珍しいもので筆者も倧倉感動しおいる。東寺の倧䌜藍では枡蟺の綱が鬌の腕を切り萜ずした矅城門を蚪れ、逆さ五重塔に驚いおいる。東本願寺、西本願寺では芏暡の倧きさや宀内の装食物(サツキの床柱、玫檀黒檀の现工物、秀吉お成りの湯堎、狩野掟の絵等)に関心を瀺しおいる。埡圱石で出来た五条橋を枡り、普請最䞭の島原の賑わいを肌で感じ、京の町を倚いに満喫した1日の蚘録である。

矅城門は東寺の南倧門のこずだず蚀われおいるようだが、珟圚考叀孊的には遺構はただ発芋されおいないずのこず。平安京は矅城門を䞭心に朱雀倧路を䞭心に巊右察称の䜍眮に東寺ず西寺を建立、京の倖から来た人が最初に通る堎所だった。

普請䞭の島原は江戞の吉原ず成立、内容、栌も少し異なっおいたようで、人の出入りも自由に出来、枅河八郎、頌山陜のように芪孝行のために実母を揚屋で遊ばせた䟋がある。

筆者が行った倩保14幎は、前幎13幎(1842幎)老䞭氎野忠邊が出した倩保の改革䞭のため、島原以倖の遊所は商売替え、もしくは島原ぞ移転させられおいる。

浄土真宗の門跡に぀いおの説明がある。門跡に準ぜられた5か寺の総称を五門跡ずいうが芪鞞(公家の日野家出身)の盎系子孫が継承した本願寺は玆䜙屈折の埌、元犄13幎に東西本願寺を諞門跡の最埌尟、准門跡の栌に䜍眮付けられた。

次回98ペヌゞ9行目・俳句のずころからの予定。(䌊沢 千代子)

2026幎2月1日
参加11名

䜜者は午埌の芝居芋物を楜しみにしおいた様子で、午前䞭は粟力的に京郜芋物をしおいる。日の出ずずもに出発したようで南犅寺、金地院、倧䌜藍の知恩院、枅氎寺、祇園瀟、八坂を䞋り束原通りを抜け芝居小屋のある四条たで散策しおいる。午前䞭にこれだけ芋孊したのに䞀同驚く。

枅氎寺では舞台よりも地䞻の桜に感動したらしい。この桜は䞀重がだんだん八重桜になるめずらしいもの。

翌日3月5日は案内人ず共に倧埳寺、今宮神瀟、金閣寺、北野倩神に行く。金閣寺の茶宀の床柱に南倩の朚が䜿われ楠1枚板の倩井の蚘述に䞀同想像をめぐらす。倚分長厎か察銬経由の茞入ものだろうず意芋が䞀臎。

京郜遊郭の歎史がプリントで説明される。江戞の吉原ず違い島原は遊女たちが門倖にも自由に出入りできたようで『郜名所図䌚』に圓時の様子が䌺える。

次回は97ペヌゞ6行目から。(䌊沢 千代子)

2025幎12月7日
参加15名

茪読した頁 95-7行目12行目

7行目 吉田瀟の「額本瀟ニ有」から12行目「金戒光明寺」たで党員で音読する。吉田神瀟ここでは吉田瀟の説明を聞いた。

平安時代の859幎、藀原山蔭が䞀門の氏神である春日倧瀟四座を屋敷神ずしお勧請したずいう。春日倧瀟ずいえば、郜が奈良に移された時、囜土安寧や繁栄を願う藀原䞍比等が藀原家(䞭臣)の氏神を祀ったこずに始たる。藀原北家の傍流、魚名流で地䜍は必ずしも高くない山蔭䞀門の屋敷神が、平安時代には藀原氏党䜓の氏神ずなったずいう。山蔭の孫嚘が道長の母ずいう説明を聞き、摂関政治ならず䞀同玍埗、山蔭自身も幌い枅和倩皇の偎近を務めおいる。

テキストの4枚の額の䞀぀は応仁の乱埌、埌土埡門倩皇から䞋賜された勅額だったこずがわかった。宀町時代には神職の吉田兌倶が教矩を確立しお吉田神道を創始、圌が建立した斎堎所倧元宮に勅額を掛けられ、八癟䞇神を祀っおいる。

江戞時代には幕府から党囜の神瀟の神職の任呜暩などを䞎えられ、神道界に暩勢を誇った吉田神瀟だが、明治期には䌊勢神宮が囜家神道の䞭心ずなったため、勢いを倱った。「郜名所図䌚」でみる神楜岡吉田瀟は石垣の䞊に回廊を巡らせ、倧元宮ず本宮の姿は珟圚あたりず倉わらないようだ。

前回の黄檗山萬犏寺の説明で、什和4幎350幎埗遠忌法芁に際し、倩皇陛䞋から『厳統倧垫』の名を莈られたこずに぀いお補足説明があった。垫号は倩皇から高僧に䞎えられた諡号しごうで、什和4幎、隠元犅垫が賜ったのは远加の倧垫号である。隠元は3぀の倧垫号を賜っおいる。黄檗山萬犏寺の詔曞でみるず、日づけの䞊に倩皇の抌印があった。

次回はP95・13行目から

2025幎11月2日
参加12名

茪読した頁 94-5行目95-6行目

『䌊勢倪々講道䞭蚘』 倩保十四幎

5月の続き、本文に戻りP94・5行目から党員で音読をする。䜜者は宇治に入っおから䌏芋を抜けお京郜の䞭心郚に移動する。宇治では歎史的に有名な平等院、頌政が亡くなった扇子の芝、䜐々朚梶原先陣争いの堎所、宇治橋(日本最叀の朚橋)、浮橋を芋孊する。薬甚に飲たれおいた宇治茶はここで䞀般人の飲み物になった解説がある。

䜜者は黄檗山萬犏寺の倧䌜藍に驚愕する。圓寺を蚪れた人の話によるず菊ず葵の埡王が䞊列しおいる理由に参加者䞀同興味を瀺す。この寺はむンゲン豆で有名な隠元が来日し、1661幎開創されたが、埌氎尟倩皇の奥方である埳川和子がこの土地を寄進したため隠元は䞭囜に戻らず氞䜏を決意した。以埌皇宀ず埳川家の保護を受けたため䞭囜建材、䞭囜圢匏で建おられたこの寺は犅宗にもかかわらず別栌で、什和4幎350幎埗遠忌法芁に際し、倩皇陛䞋から『厳統倧垫』の名を莈られた皋の名刹である。

次回はP95・7行目から。(䌊沢 千代子)

2025幎10月5日
参加13名

茪読した頁 111-10行目最埌

巻末の「東山西山京郜名所獚案内」

7月6日から読み始めた「東山西山京郜名所獚案内」も4回目でいよいよ最終ペヌゞ。い぀ものずおり、A3刀2枚の京の叀地図「文久改正新増现芋京地図倧党」を䞊䞋巊右に動かしお案内のルヌトを蟿った。

前回、埡土居の倖にある平野野瀟珟圚は平野神瀟がなぜ名所案内にの疑問が刀明。平安の頃よりの桜の名所であり、実は桓歊倩皇が平安遷郜にあたり、平城京から今朚神母方の枡来系の祖神等を遷座したずいう歎史があった。たた、奈良時代から倚くの臣籍降䞋の氏族の氏神ずしお尊厇された神瀟で、あの源氏、平氏も厇めたずいう。

江戞時代になっお平和が蚪れた京郜は、角倉父子が開削した高瀬川により京郜に物資や人が行き亀い、商工業が発展したずいう。

10行目から案内に埓い、金岳寺金閣寺、嵯峚野の愛宕山倧暩珟を行く。愛宕山の本尊将軍地蔵は将軍ではなく勝軍地蔵が垂迹した軍神の説に肯う。二尊院釈迊堂をめぐる。

京郜䞭心にもどり、西囜十八番札所六角堂は聖埳倪子が建立し䞀寞八分の本尊があるずいう玫雲山頂法寺を行く。ここは四倩王寺建立の材朚を求め蚪れた聖埳倪子が池で身を枅め念仏仏を安眮した身を枅めた地ずいう。瞁起は疑わしいが六角堂は華道家元が䜏職を務め、池坊䌚通でもある。いけばなは寺院の祭壇に花を添えたこずから始たるずいう話に䞀同玍埗。䞋京区の仏光寺、西囜十八番札所銙堂(革堂)から北区の䞊加茂を回る。

北東ぞ䞀足飛びに回り、鞍銬山毘沙門倩、僧正が谷、牛若歊芞の跡、貎船の瀟から比叡山を巡り案内は終わる。珟代の地図になれた目には叀地図の距離感や方䜍に迷う。矩経が倩狗倧僧正から兵法を孊んだ地は、比叡山から鞍銬、貎船の京郜トレむルコヌスを歩いた䌚員の話では、朚の根が道を塞ぐような山岳の難コヌスで、矩経は意倖ず小兵で動きが俊敏だったようだ。絵垫は呚囲の山嶺をすべお描き、逆に名所史跡に特化した自由な描法や巧みさに感嘆しお案内を読み終えた。次回はP94の4行目宇治に入る。

番倖線

幕末維新の舞台ずなった京郜のゆかりの地をめぐるNHKの番組の映像を、䌚員の協力でスクリヌンに映しお鑑賞した。(岡芋 みどり)

2025幎9月7日
参加16名

茪読した頁 110-15行目

京郜名所独案内(P110/15行目)光正寺より音読をする。

文久3幎(1863幎)の现芋京絵図倧党の地図で東寺、倧通寺、嶋原、本圀寺、二条城、しんせんえん(神泉苑)、北野倩満宮、平野々瀟の䜍眮を確認する。

前回孊習した西本願寺、東本願寺の詳しい説明がある。倧きくなりすぎた浄土真宗は圓時の治䞖者にずっお目の䞊のたんこぶでこの扱いに。秀吉、家康は倚いに苊慮したこずが再確認された。さらに西本願寺の隣に日蓮宗の総本山本圀寺を蚭眮し他宗をお互いに牜制したようすがわかった。

二条城は平安京の内裏の西端に圓たり、しんせんえん(神泉苑)が隣接しおいるのが玍埗。小野小町ず雚ごいは江戞時代には有名な話だったこずが報告された。

次回は111ペヌゞ・金岳寺より読み進める。(䌊沢 千代子)

2025幎8月3日
参加9名

茪読した頁 109-4行目110-15行目

巻末の「東山西山京郜名所獚案内」

たず、前半に、①前回の疑問、②戊囜期ず秀吉の京郜倧改造の地図で、応仁の乱を経お荒廃した京郜がダむナミックに発展した様を確認した

① P107・7行目 内裏の䞉月䞉日の闘鶏

雄鶏を戊わせる遊戯で鶏合ずもいい、奈良時代に䞭囜より䌝来。平安時代に歌を添える物合せずしお発展し、鎌倉・宀町時代には朝廷・幕府の䞉月の䞊巳の節䟛の遊興の䞀぀ずなり、江戞時代には庶民や歊士階玚にも広がった。P107では、幎4回、日の埡門日之埡門、京郜埡所建春門より貎賀男女の出入りを埡免ずあり、庶民も䞀緒に楜しんだらしい。

② 「戊囜期の京郜垂街図」ず「秀吉によっお改造された京郜の地図」

戊囜期では䞊京・䞋京ず南北に倧きく分かれ、瞊に走る宀町通りで繋がるのみだった。酒屋・土倉・油屋の財力を蓄えた商人の蚘号が䞊京・䞋京に連なる䞀方、祇園䌚の山・鉟の蚘号は䞋京に集たっおいる。祇園䌚を資金や文化面で支える力は幕府にはなく、䞋京の商人達に移ったこずを確認。

秀吉は、掛䞭を埡土居で囲み、正方圢の条坊制の真ん䞭に小埄を通し、効率的な土地利甚をした。平安京の倧内裏の跡地は聚楜第に、内裏は盞囜寺の南、公家町ず倧名屋敷町の間に据えおいる。江戞時代の京郜は秀吉の倧改造にもずづくこずを確認。

埌半は、「東山西山京郜名所獚案内」P109・4行目に戻り、東山の八坂の塔から読み始める。六波矅、枅氎寺、倧仏殿などを経お、䞉十䞉間堂を進み、町割の区画が敎った掛䞭に入る。䞃条烏䞞の東本願寺、西ぞ䞃条堀川の本願寺西本願寺の広倧な敷地を地図䞊で確認しお読了。

2025幎7月6日
参加9名

茪読した頁 107109-4行目

巻末の「東山西山京郜名所獚案内」

前回、倧坂を堪胜した長右衛門さん䞀行の移動の行皋を確認する。

倜、淀川を舟で出発、船䞭泊で橋本に明け方着。淀川は、江戞時代䌏芋ず倧阪を結ぶ倧量茞送の舟運で発展し、人の移動は䞉十石船を利甚した。淀川の䞊りは、通垞なら早朝に倧阪倩満宮の八軒家を出発する。道䞭、枚方の有名な「くらわんか舟」が売る飲食物を楜しむずいう舟旅である。

ずころで、橋本は石枅氎八幡宮のお膝元にあり、淀川に泚ぐ朚接川・宇治川・桂川の䞉川の合流の地である。䞀行は、朚接川べりの石枅氎八幡宮を参拝し、察岞の宇治川偎に枡った。前回はここたで読了。

今回は、本線の京郜の旅が始たる前に、巻末の「東山西山京郜名所獚案内」を読み、名所旧跡の䜍眮を、叀地図「文久改正新増现芋京絵図倧党」出版者・竹原奜兵衛(文久3)䞊で確認した。距離感は無芖されおいるが、京郜は、寺瀟が掛倖にあるので地図䞊で探玢しやすい。たた、街路や埡土居が敎然ずしおいる様子は、さすが蚈画された郜である。

P107P109 4行目たでを読了。次回は匕き続き、「獚案内」を読むので、ルヌペがあれば次回ご持参ください。

2025幎6月1日
参加15名
前回䜜者は3月1日党日芝居芋物をおこなった。圓日の芝居の挔目を調べたが資料にはなく倧坂の芝居に関する資料がありこれを解説する。

『摂接名所図䌚』に茉っおいる倧坂歌舞䌎の芝居小屋が道頓堀呚蟺に6座確認できた。合わせお道頓堀になぜ芝居小屋ができたか、その経緯や道頓堀の歎史が説明された。珟圚でも宗右衛門、久郎右衛門ずいう町名が残っおいる。歌舞䌎の歎史ず人圢浄瑠璃ずの関係も解説された。さらに倩保の改革ず江戞倧火の結果歌舞䌎にも様々な圱響がでたこずが説明された。猿若町の名前は奉行所から名付けられたもの。倧火埌再建された江戞歌舞䌎座は明治元幎たで続き珟代の歌舞䌎座の基瀎を぀くった。

䜜者は倜船で橋本たで行ったが流れに逆らい淀川から京郜たでの旅は珟圚では考えられないほどの窮屈な旅だったようだ。䞊り船曳き䞊げは倚くの人力を必芁ずしたこずが図から確認された。

次回は京郜の芳光地などの街の案内から始めるこずになった。(䌊沢 千代子)

2025幎5月4日
参加13名

茪読した頁 9495

前回の内容をプリントを䜿っお詳しく解説する。綱敷倩神ず密接な関係人物である菅原道真に぀いおの解説。圌は901幎1月25日倧宰府暩次官に任呜され巊遷されたす。圓時倧宰府は、朝鮮はじめ南貿易の重芁拠点で私腹を肥やす人たちにずっおは魅力的な堎所でしたが、品行方正、倩皇の信任節い道真は䞭堅勢力。藀原家にずっおは煙ったい存圚でした。道真は圌らの眠にかかり、九州に巊遷されたす。通垞14日かかるずころを55日もかかっおいたす。これは途䞭、道真を亡き者にしようず浪荒い玄海灘に挕ぎ出したり、いろいろ嫌がらせをしたからだず蚀われおいたす。瀬戞内海沿いに綱敷神瀟が倚いのは、道真が䞊陞し、持垫たちが圌のために網を円座に䞞めおお座りいただいたのが名の由来だずいわれおいたす。珟圚6぀の綱敷倩神瀟、倩満宮がありたす。道真は垰京できず圓地で59歳で亡くなっおいたすが、圌の死埌京郜では萜雷、火事が起こり、郜の人は圌の祟りだずいい、霊を慰めるために孊問の神に祀り䞊げたずいわれおいたす。

ちなみに平将門、菅原道真、厇埳倩皇が、日本3倧怚霊ずいわれおいたす。次回は94ペヌゞ5行目からです。(川口 利光)

2025幎4月6日
参加11名

茪読した頁 92-4行目93-6行目

青朚長右衛門䞀行は播州(珟圚の兵庫県)ぞ入囜したした。2月28日、田䞭屋泊り翌日舞子の浜から芋た束林の絶景に感嘆しおいたす。その埌、䞀ノ谷、䞉ノ谷などを巡り、海岞線が赀癜色に染たっおいるのが誠に䞍思議ず述べおいたす。これは䞊流の川氎が酞化され赀色化したものず思われたす。

曎に東ぞ河内・和泉(䜕れも倧阪府)、摂接(兵庫県・倧阪府ずの半々)の囜境には楠朚正成(12941336)の墓碑がありたす。これは1331幎(元匘元幎)に埌醍醐倩皇の再床の倒幕蚈画が刀明した際、正成は河内の赀坂城や千早城に拠り、巧みな兵法ず知略で幕府の倧軍を防ぎたす。建歊の新政で河内・和泉・摂接3囜の守護。足利尊氏が新政府から離反するず、これを九州に敗走させ1336幎(建歊3幎)、尊氏が再び東䞊するのを摂接の湊川に迎え撃ちたすが、正成は足利盎矩に敗れお自害したした。(川口 利光)

2025幎3月2日
参加16名

茪読した頁 進捗なし

前回茪読した「金毘矅暩珟」ず「喩迊暩珟」ずの䞡参りに぀いお远加の資料説明がある。虎ノ門に「金毘矅暩珟」の分瀟があるのは関東地方の人でも良く知っおいるが「喩迊暩珟」の名前を聞いたこずがある人はたれである。海の安党を叞る「金毘矅」さたは歌に歌われるほど銎染みがあるが埌者は党くない。関西以西は二瀟参りが盛んであるようだが、江戞の屋敷に瀟を建お埡利益を宣䌝し、倚くの人を集めた金毘矅参りは宣䌝広報掻動が巧だったこずが確認された。1854幎に藀沢遊行寺に「喩迊暩珟」を祀った蚘録『藀沢山日鑑』を読む。明治4幎たで毎幎3月に喩迊、熊野暩珟の祭犮を行っおいたこずに䞀同驚く。蚘録にあるが珟圚暩珟様は珟存しおいない。 播州の海岞沿いには倚くの有名な束があるが䜜者も防砂林ずしお怍えられた巚朚の束に感動しおいる。浮䞖絵に茉るほど圓時の束は有名で、おめでたい垭で歌われる高砂の束は尟䞊の束か盞生の束かいろいろな意芋がある。

2025幎2月2日
参加12名

茪読した頁 91-4行92-4行

2月27日は行皋から掚枬するず1日43kmが劥圓ではないかずいうみんなの意芋。圓時は圓然ナンバ歩きだったが、この走行方法は畑を耕すずきに鍬ず脚を同時に出すので、日本人は蟲耕民族の䜓の動きが本胜的に刷り蟌たれおいるずいう意芋に䞀同倚いに玍埗する。倧石内蔵助の掟の盃に曞かれおいる文字で、「䞋に眮くべからず」の内容は、最埌たで飲み干すこずを蚀っおいるので、この颚習は今でも高知県に残っおいるずのこず。この盃はどれくらいの倧きさで、なぜ接軜倧石家で発芋されたのか各自の意芋が非垞に面癜かった。倪平の元犄期に起きた仇蚎ちに江戞庶民の興奮床が䌝わっおきお、本文茪読より盛り䞊がる。赀穂の塩は藩に莫倧な利益をもたらし、他の藩から塩田業に関する問い合わせがたくさんあったずいうこずを知る。

2024幎12月1日
参加9名

茪読した頁 89-4行91-3行

22日 金毘矅倧暩珟から匘法倧垫生誕の地・善通寺を参詣する。ここで匘法倧垫にちなんだ歌を詠むが、歌にも季節が緩んで春らしくなったこずがわかる。䞞亀から朝8時ころに船に乗り、玄8時間かけお察岞の田の口に着く。だいぶ時間が掛かっおいるのはなぜかず議論になる。瀬戞内海にはたくさんの島があるので途䞭どこかの島に立ち寄ったいや珟圚のような倧きな船でないので、颚任せの船旅だから圓然時間がかかった歌に出おくる鯱(しゃち)、鮒(ふな)、鯲(どじょう)が出おくるのは、深海ず浅海を経隓するほどの厳しい船旅であった 等の意芋が倚数でる。圓時は備前、備䞭、備埌にわかれおいお、䜜者は備䞭の䞀の宮に参詣する。岡山では埡圱石の橋を枡り、25日藀井宿に泊たる。27日の蚘述が抜けおいお、その日は埡着宿に泊たったこずになる。川の土手にある赀束円心の墓は、あばれ川だった千早川から、赀束家の菩提寺に移されたかもしれないずいう意芋がある。しばし墓の話で盛り䞊がる。

2024幎11月3日
参加12名

茪読した頁 87-14行89-3行

最初に音読をしお始める。四囜に枡るには倧阪のルヌトず加田からのルヌトがあったが長右衛門は加田から船に乗り淡路島を右手に芋お撫逊(むや)に䞊陞。鳎門海峡の枊も芋たのであろうか長時間の船旅で船酔いした狂歌を残しおいる。江戞時代盛んだった斎田塩に぀いお説明がある。赀穂や埳島藩は塩で倚いに最っおいたようである。塩は戊埌専売公瀟が独占しおいたが昭和60幎に民営化しおからいろいろな皮類の塩を食べるこずができるようになり暫し塩の話で盛り䞊がる。金毘矅宮は船乗りの守護神ずしお有名であるが歎史を調べるず象頭山に倩竺から飛翔し鎮座した山岳宗教ず修隓道が融合した神仏習合の神で倩狗の面を 背負った行者が党囜をたわり日本䞭に金毘矅信仰が広たった。有名な歌 “远颚(おいお)に垆かけお シュラシュシュシュ”は船頭の眠気芚たしず 倜間航行䞭乗船者に安心感を䞎えるためにも歌っおいたこずは䞀同目から鱗だった。珟圚虎ノ門にある金毘矅倧暩珟は江戞城の裏鬌門にあり、 䞞亀藩の屋敷内にあったが江戞庶民のため毎月十日邞内を開き参拝を蚱可した。今もこの地で参拝できるそうだ。

2024幎10月6日
参加15名

茪読した頁 8687-13行

前回慈尊院を参拝しおから船に乗り玀の川をくだり若山たできた。今回玀の川に぀いお远蚘がある。玀の川の河口付近は倧昔海であり1620幎の倧措氎で倧きく流れがかわったこずが昔の地図で確認された。 若山は圓時玀州家のお膝元でたいぞん栄えおいたがそれ以䞊に青朚長右衛門さんにずっおは䌊勢ず同じくらいのあこがれの土地だったこずが文章から分かる。 聖歊倩皇に同行した山郚赀人が読んだ歌に代衚されるように歌詠みにずっお1床は行きたい堎所で芭蕉を含め倚くの歌の題材になるほどの颚光明媚な堎所であった。 若山から和歌山にかわったこずからもわかる。玀䞉井寺、和歌の浊、和歌䞉神など長右衛門にずっお次から次ぞず歌が湧き出た堎所であった。 䌊勢参りをしたあず金毘矅を蚪れる団䜓客は加田から撫逊(むや)たで倧型船で行く短距離の海路が開発されたため、倧坂ルヌトの金毘矅詣船客が激枛した。 呚蟺の旅籠の䞻たちのお客の奪い合いの蚘事はさながら珟代のJALずANAを連想させられた。

2024幎8月4日
参加13名

茪読した頁 84-8行85末

15日 高野山のずころから音読をしおから解説に入る。䜜者が月牌(がっぱい)の䜍牌4本立お斜逓鬌等いろいろ䟛逊したずあるが参加者もあたり仏教甚語、行事に詳しくなかったので倧倉参考になった。日本の仏教は宗掟により異なるこずがあり改めお茶代の意味を認識する。倧山に茶湯寺があるがこれも関連しおいるずのではずいう意芋があった。 奥の院や宿坊は独特の雰囲気があり蚪れた人の話を聞く。匘法倧垫の埡母堂が䜏んだ慈尊院に倧垫が月に9回も(たくさんずいう意味)通ったずころから九枡山ずいう地名が残った話は初めお聞く。䞹生郜比売神瀟は玀䌊䞀の宮で高野山の鎮守ずしお叀くからある。䜜者は䞊った道ず反察偎の道を䞋山しお玀の川を船で和歌山に行った。い぀ものように䜜者のダゞャレの句がある。

2024幎7月7日
参加15名
(先月茪読箇所の補足)

前回刈萱同心に぀いお簡単に解説したが今回はその人物ずそれに関係する説教節に぀いおさらに深く孊習する。説教節は䞭䞖に起こり近䞖にかけお盛んになった語り物の芞胜で起源は仏教の説教である。特に浄土宗系の仏教においお庶民にわかりやすく䞀定の旋埋を䌎っお䞉味線、人圢操り、小屋掛け興行、人圢浄瑠璃ぞず発展するが江戞䞭期になるず文字文化に抌され衰退する。珟圚では倚摩地方、矀銬の䞀郚に残っおいるそうだ。京郜に䜏んでおられた方が説教節を聞きに祖母に連れられおよくお寺に通ったずいう話もありたした。珟代でも有名な『小栗刀官』『刈萱同心』の説教節をCDで聎く。語りず䞉味線を䞀人で行う芞術性の高いものに䞀同感動する。 高野山は単独山でなく8座の総称で女性犁制倖の寺院は女人高野ず呌ばれた。䜜者たちは高宀院に泊たっおいるがここは北条氏盎が朜居した堎所で小田原坊ずいわれる。碑文にある匘法倧垫の歌、"恐れる"は"忘れる"の誀怍(もしくは翻刻時の誀読)ではないか ずいう意芋がある。䜜者が泊たった玉屋は圓時ずしおは非垞に立掟な宿屋であったこずが玀䌊名所図から刀明する。

2024幎6月2日
参加12名

茪読した頁 82-4行84-7行

奈良垂の地図ず名所案内図を参考にしお奈良県党䜓を確認する。奈良垂から倧和郡山垂、明日銙村、吉野町、十接川村たで非垞に倧きな県であるこずを再認識する。初瀬寺、染井寺は存圚しないので䜜者の誀認識か。圓麻寺の䞭将姫䌝説ず蓮の茎で織ったずされる曌荌矅に぀いおいろいろ掻発な意芋が出る。 倚歊峰寺は明治2幎談山神瀟ずしお独立。朚造建築の十䞉重塔の他に石造のものがあるこずは党員知らなかったが今は先頭が砎損しおいるずいう。 14日は吉野山泊たりであるがたずめお曞いた俳句や狂歌の解釈がいろいろあっお異幎霢の茪読䌚の良さを改めお知る。 説教節に出おくる石堂䞞、千里前の話は次回に。日牌、月牌の説明があり金二朱を支払ったずいう文で珟圚の䟡栌に換算したらどれくらいか議論する。 高野山高宀院に関しおは、寒川町にお詳しい研究がされおいるそうです。

2024幎5月5日
参加14名

茪読した頁 80-14行82-4行目

前回茪読した堎所を地図で確認する。この地図は平城京の地図に珟圚の䜏所を重ねた非垞に孊習者には理解しやすい䟿利なもので朱雀倧路を䞭心にしお巊京区のほうが広く延びおいるのが分かる。 これは東倧寺や興犏寺のような勢力ある寺院が倚くあったからだずいわれおいる。䜜者が1日にたくさんの寺院に行っおいるが地図䞊では8キロ範囲にすべおカバヌされおいるので圓時の人の脚力では 可胜だったこずが玍埗できた。奈良の旅籠小刀屋善助は猿沢の池近くに500人が泊たれる立掟な宿だったこずが分かった。正倧寺は唐招提寺のこずであったこずも刀明する。興犏寺の焌朚胜は 『倧和名所図䌚』から薪埡胜のこずで四座(金剛、金春、宝生、芳䞖)が毎幎2月7日から14日たでおこなわれおいおこれに合わせお䜜者は芋にいったようだ。しかもVIP甚の桟敷垭で芋たこずが 本文からわかる。 内䞃圚所、倖䞃圚所の寺を参詣したが法隆寺が内、倖に出おくるのでこれは蚘憶違いか、圓時どちらでもよかったのかが疑問ずしお残り各自の宿題になる。

2024幎4月7日
参加13名

茪読した頁 78-7行80-13行たで

前回䜜者ず同講に参加した䞉觜八郎右衛門(*1)は二芋ヶ浊から別行動をずったのではないかずいう疑問を確認するため圓時の街道が分かるプリントを怜蚎する。 二芋道、鳥矜道、磯郚道があり、䞉觜は朝熊山から別行動で鳥矜道を䞋り磯郚道でもどったようである。途䞭青峯山正犏寺があり廻船業を営む人には颚雚の難を逃れるずいう信仰が あったのでわざわざ回り道をしたようである。たた磯郚には内宮の別宮 䌊雑(いざわ)宮があったずいうこずを孊習者は始めお知る。 倖宮に参詣したのち倜は叀垂に繰り出しこの旅行の目的は達成され、その翌日各自垰路に着く。䜜者たち経枈的に䜙裕のある人たちは初瀬街道の名匵、灰(抛)原を 抜け長谷芳音を参詣する。䞉条の小鍛冶宗近のこずが話題になる。有名な刀鍛冶で以埌の刀鍛冶垫に倚くの圱響を䞎えたずいう。刀、倪刀の違いの解説や歎史が話し合われた。 俳句、狂歌の印象、解釈が各自行われ䞀句から様々な解釈がなされ、倚数が出垭する茪読䌚の面癜さを各自䜓感するこずができた2時間でした。

(*1)

䞉觜八郎右衛門は、この神沢講に参加しおおり、筆者(青朚長右衛門)ずは別の組で、䌊勢参宮の旅に同道しおいる。その道䞭日蚘は『藀沢垂史2 近䞖資料線』に掲茉されおいる。

2024幎3月3日
参加14名

茪読した頁 77-14行78-7行たで

明治35幎の䌊勢垂の枬量図ず珟圚の䌊勢垂の地図を比范しお倧きく倉化した点を目ず解説によっお詳しく知るこずができた。今日䌊勢倖宮ず内宮は車で 簡単に行けるが圓時は3キロの道を歩きや駕籠で入ったのが地圢からもよく分かった。 坊入りしおから3ヶ日目に道䞭のメむンである倪々神楜が挙行されたが、䜜者にずっおはあたり感動しなかったようで75䞡は高すぎるず感想を 挏らしおいるのが面癜い。その埌物芋遊山で二芋ヶ浊に行き倜は党員で遊郭叀垂に行った様子が描かれる。珟圚京の郜おどりの基瀎になった様子が 䌊勢叀垂螊ヱ図(浮䞖絵―藀沢浮䞖絵通所蔵)を䜿っお解説がある。䜜者にずっおは神楜奉玍よりは叀垂のほうが面癜かったのかも知れない。

2024幎2月4日
参加13名

茪読した頁 77-1行13行

『ニッポンの旅 江戞達人ず歩く東海道』で倧井川の川枡を詳しく孊習する。ダムがなかった江戞時代倧井川は箱根越えず同じく難所の䞀぀で雚が続くず川止めになった。 川枡の詳しい状況ず料金などは倧倉参考になった。橋が架けられなかった理由も興味深い。 二月朔日の茪読。䞀ノ朚神䞻家来、杉本暩倪倫家来が迎えに来お酒肎で埡銳走になった。本来なら二芋浊の芋物が雚でできず銬,籠に乗りさながら倧名行列気分で新茶屋に泊たる。 駕籠は八拟䞁䜵銬五䞃疋 の文で五䞃疋は57頭か35頭かが問題になる。明治時代たで日本人は十の䜍取りの意識がなかったので䞃䞃49日ず同じように35頭ではないかずいう結論になる。 前回牛頭倩王に参詣したが接島神瀟にある有名な富くじ(接島垂重芁文化財)の説明がある。癜子(しろこ)芳音の山桜䞍断桜は珟圚も囜の倩然蚘念物になっおいおいる。接芳音は浅草芳音、名叀屋の倧須芳音ず䞊ぶ日本3倧芳音の䞀぀で䌊勢参りの参拝客で倚いに賑わったずいう。 『䌊勢参宮名所図䌚5巻』の絵図には節分の鬌おさえの図があるが眪人を鬌に芋立お棒でたたいおいる怖い様子が描かれおいる。

2023幎12月3日
参加-名

12月は、地誌茪読䌚の特別䌁画のためお䌑み。 ※特別䌁画の実斜報告は、「倪平幎衚録」2023/12/3の項にお掲茉。

2023幎11月5日
参加12名

茪読した頁 75-12行76末

䜜者は27日名叀屋、28日桑名、29日神戞たで歩いたこずが分かる。名叀屋では姉がいたようで宿屋に泊たらず姉のずころに行き その埌1等地にある末広町に他の人達を誘い掟手に遊んだようである。 埡䞉家のお膝元である名叀屋は田舎の人がビックリするほど賑やかな様子が分かる。圓時の殿様は倹玄什が出おいたにもかかわらず 城䞋はそのようなお觊れに反抗するように掟手であったこずが説明された。 道䞭蚘らしく桑名の城、神戞の癜子芳音に参詣した様子が曞かれおいた。

-甚語に぀いお-

* 前回の歌に出おきた鰒をうなぎず発音音読したがこの字は江戞時代はあわび、ふぐのこずを指すずいうこずが説明された。 * 䞋拙 自分のこずをぞりくだっお蚀うこずば。拙者。吟茩 * 歌姪 これはなんず発音するのか、どのような意味か次回たでの宿題

2023幎10月1日
参加14名

茪読した頁 72-5行75-11行

小田原池鯉鮒宿(愛知県知立垂)たでの行皋を数行ず぀音読。難字の読み、語句の疑問や解釈、道䞭の様子等を話し合いたした。 1日目の泊りは小田原宿。翌朝たで芋送る人もいたす。宿泊先は脇本陣なのに、平面図でみるず、䌊勢埡垫宅より狭く実地で芋る倧切さを痛感。狂歌で道䞭の行皋を蟿りたす。 2日目䞉島宿・3日目吉原宿泊。翌日、元垂堎富士の癜酒を飲たずに蒲原宿で倧茶碗で冷酒を䞀盃。由比、難所の薩倚峠、興接を過ぎ、4日目江尻宿泊。久胜山、府䞭城、浅間山を芋孊。 5日目の府䞭宿の倜は幕府公認の遊郭(埡免)に総出。金谷宿・森宿・西川宿・倧野泊、鳳来寺を参詣。豊島皲荷は初午の前で、埡油ず小豆飯を奉玍し10日目赀坂宿の玅葉屋泊。 埡油は油揚げずの解釈に玍埗。小豆飯は赀飯ではの疑問に、うるち米ず小豆で炊いおいる実䟋が玹介された。池鯉鮒宿(知立)は山吹屋泊です。 前回の撒き銭は、祀っおほしいず寄っおくる雑神を祀る䟝代がないため、四方に銭を撒くずいう民俗孊者の説が玹介された。

2023幎9月3日
参加13名

茪読した頁 71-4行72-5行

前回から始めた音読は行数を短くしお行ったため文法的疑問、難字の解説、語圙の説明等、詳しくしたので党員玍埗の行くクラス運営でした。 村を出おから党䜓5組の集合堎所銬入川たでたき銭をしながら出発したす。倩気にめぐたれ小田原宿たでは芋送りの人達も倚く集たり近幎たれにみる賑やかな門出でした。 100人近い集団で小田原宿の予玄が1軒だったため急遜5軒に分散し以埌この圢匏で行われたす。 自分の連句を入れるため蚘述が前埌しおいるのは䜜者の人柄を感じたす。倧磯でも俳句を披露。 䌊勢埡垫宅の配眮図、家老の意味、圓時の䞡替商の圹割、貚幣レヌトに぀いおの説明や疑問に぀いお掻発な話し合いが行われたした。

2023幎8月6日
参加13名

今回から党員で声に出し茪読をする圢匏にする。 荻園村の青朚長右衛門達が5幎かけお75䞡の積み立おが満期になり倩保14幎1月16日䌊勢に向けお出発する前曞きを党員で茪読。 15班たでの参加者の名前を読むずころから個人で読む。平均20䜙人の団䜓で途䞭から加わった者をいれお100䜙人の講はさぞかし賑やかであっただろう。 班分けに぀いお芪しくしおいる村同志や幎配の付き添いの若幎者があったらしい掚枬がなされ様々な芖点から意芋が亀わされた。 圓時藀沢村ずいう呌称はなく、人家の少ない柄沢村蟺りぞ藀沢宿から移䜏したの人々があったこずから藀沢村ずいう感芚で䜿ったのかずいう疑問や、16日の倜出立したずあるが䜕か意味があるのかずいう疑問がだされた。 各自の疑問をみんなで共有するこの圢匏はなかなか面癜い。今埌の展開に期埅が持たれる。

2023幎7月2日
参加13名

今回から倩保14幎高座郡萩園村の青朚長巊衛門が䌊勢神宮ぞ参詣した旅日蚘を茪読するこずになりたした。 スラむドを䜿っおお䌊勢参りずはどのようなものだったのかの説明が浮䞖絵や地図を䜿っおあり圓時の人口玄3000䞇人のずき玄500䞇人が参詣した事実に䞀同驚きたした。 60幎呚期で蚪れたずいう熱狂的お䌊勢参りは講を組んで出かけぬけたいりずいっお奉公人がふらりず旅に出おしたうほど江戞䞭期から埌期にさかんに行われたようです。 珟圚の䞀般庶民が手頃な感芚で海倖旅行にでかけられる䞋地はこのころに぀くられたようで重い荷物を目的地たで運んでくれる宅急䟿のシステムもこのころにできたようです。 埡垫ず呌ばれる今でいう䌊勢神宮旅行代理店の瀟員が出発から宿の手配ず懇切䞁寧に旅の手配をしおくれたので参詣人たちは安心しお旅ができたようです。 やっずためたお金でにぎやかに団䜓旅行を楜しんだ有様が目に浮かぶようです。 次回は蟲閑期の1月16日銬入川の川岞から出発しお70日かけお垰宅するたでの道䞭蚘録を皆で声に出しお茪読する予定です。

2023幎6月4日
参加13名
『芳音信仰に぀いお』

秩父坂東湯殿山蚘行が終わり前回の鎌倉の倉遷に続く補足の芳音信仰に぀いお解説がある。 江戞時代䜕日もかけお芳音巡りをする情熱の根底にはなにがあったのかずいう疑問に察し芳音菩薩ずは䜕かずいう説明がスラむドを䜿っおおこなわれた。悟りを埗た劂来を頂点に、菩薩芳音、明王、倩があり日本に䜛教が入っおきお支配者階玚からその䞋の階玚ぞず広たった。 空海が持ち垰った密教は䜙りにも修行が厳しかったため珟䞖埡利益がかなえられるやさしい教えが䞋局階玚に広たり、末法思想や浄土教、日本叀来の神教が融合しお芳音信仰が広たった。 鎌倉時代頌朝の芳音信仰から急激に広たり四囜、坂東、秩父を巡瀌するこずが江戞時代には信仰ず物芋遊山が重なり䞀般庶民も手軜にいけるようになった。芳音信仰は日本人の魂、思考や生掻様匏にしみ蟌んでいる問題で非垞に奥が深いずいう結論になった。 䞀神教ず違い他の宗教ずの共存を認める懐の広いのが仏教であるずいう意芋に皆賛成する。 空海の真蚀宗に察し倩台宗比叡山で孊んだ僧から新しい宗掟が生たれた。

2023幎5月7日
参加12名

䜜者が満願ずなった鎌倉に぀いおの解説がある。1333幎鎌倉幕府が滅び宀町幕府ず関東管領ずのトラブルにより鎌倉公方が叀河に移っおから鎌倉は荒れ攟題になった。 頌朝が京郜をたねお぀くった鎌倉の町は接波により高埳寺の倧仏の建物も流され、材朚座から続く1520m幅の道路も荒地になっおしたった。 鎌倉が埩掻したのは埳川家康が江戞入りしおから家光の頃幕府が安定しお庶民にもゆずりが珟れ金柀八景、江ノ島、鎌倉巡りにいくようになっおからだ。 江戞から5泊6日の物芋遊山で倚くの旅行者が蚪れ、明治以降は政治家、文筆家の別荘地ずしお栄え珟圚の鎌倉が出珟した。道路も芳光客甚の店に占領され長期間の旅を した芳音信仰ずはなんだろうか、日本人の粟神の構造が分かるかもしれないのでもう少し掘り䞋げたらずいう意芋がありたした。

2023幎4月2日
参加11名

半右衛門さんは保土ヶ谷新町から戞塚ぞ出お杉本寺から鎌倉叀巡瀌道を歩き岩殿寺に぀きたした。出発地の藀沢はもうすぐです。 鎌倉倧町の田代芳音から長谷寺の長谷芳音をお参りしお぀いに懐かしい我が家に垰っお来たした。享保11幎5月19日55日の芳音巡瀌の旅は終わりたした。 1日数十キロを歩き続けた達成感はいかばかりかず想像するほかありたせんが出迎えた家族や村の人たちにずっおしばらくは土産話に花が咲いたこずでしょう。 私達も半右衛門さんの曞き残した旅日蚘で圓時の旅や経枈、地圢、芳音信仰に觊れるこずができたした。 鎌倉にある安逊院田代寺、長谷寺は浄土宗で岩船寺は曹掞宗です。この䞉寺だけが倩台宗、真蚀宗からなる芳音信仰の䞭で違っおいるのはなぜか疑問がでたが結論は持ち越し。 安逊院、長谷寺の成立経過が詳しく解説されたした。次回は芳音信仰党般に぀いお意芋亀換をする予定です。

2023幎3月5日
参加15名

䜜者は䞉十番札所高倉芳音から朚曎接ぞ行き海を枡っお神奈川県暪浜垂の神奈川宿ぞ入った。船賃䞀人に぀き八拟文であった。 この文章から圓時の江戞湟の海䞊亀通、航路、船はどんな船だったか圓時の神奈川宿の説明が資料をもずに解説された。 それによるず江戞湟ずいう地名はなく倪平掋が倖海、湟内は内海ず認識されおいお江戞湟ずいう蚀葉はそれたでの資料にはなかったずのこず。 ペリヌ 䞀行が来お江戞の前に広がる海を江戞湟ず呌んだらしくこのころから浊賀奉行所の圹人たちが䜿い出したずいわれおいる。興味深い話に皆玍埗。 さらに圓時の抌送船、匁才船、菱垣廻船、暜廻船、北前船、五倧力船の違い、甚途、利点、構造の説明がありたした。海に囲たれた日本は叀来から 海䞊亀通が盛んでその技術も盞圓高かったようである。珟圚の暪浜は圓時寒村で神奈川宿の繁栄がきわだったため神奈川県ずいう蚀葉もここからでたのではないかず いろいろ議論がでたした。船賃の八十文は珟圚のお金に換算するずどれくらいかは意芋がいろいろでたしたが幕末のむンフレ皋ではなかったのではないかずいう意芋でした。 今回は様々な掻発な意芋が亀わされた。

2023幎2月5日
参加15名

䜜者は安房の囜前原を発ち䌊南房州通埀還をたどり江芋、束田、加茂を経由しお33番札所那叀寺に向かう。 この寺は補陀萜信仰が節く戊囜倧名里芋氏ず倚いに関係がある。ここから船に乗り倩神山(珟圚の冚接垂)を目指したが時化に䌚い金谷で䞋船し陞路を取り海良、 花茪から倩神山たで移動しお7月13日はここで宿泊した。倩神山から鹿野山は暙高300メヌトル以䞊の難所で苊劎しお高倉ぞたどり着いたこずがわかる。 圓時の船旅は特に倪平掋の倧波をたずもに受ける航路は小型船にずっお地獄ず隣り合わせの呜がけの旅だったこずが想像できる。 だから航路の安党を願う波切地蔵信仰が盛んにおこなわれたこずがよくわかりこの呚蟺には倚くの波切地蔵が芋られるずいうこずだ。 珟圚の地図や叀地図の説明がありこの安房地方は安政の倧地震や関東倧震灜で地盀が1.5メヌトル隆起しおいるのに小湊の鯛の浊は元犄倧地震で陥没した資料がある。 地殻倉動が非垞に激しい堎所でフィリッピンプレヌトず北米プレヌトの関係が詳しく解説された。 珟地を蚪れた人の話では圓時の断局の跡が生々しく残っおいるずいうこずです。

2022幎12月7日
参加11名
特別䌁画ずしおフィヌルドワヌクを実斜

12月7日(æ°Ž)地誌茪読䌚は午前、午埌合同で鎌倉叀道巡瀌の道を歩きたした。圓日は奜倩に恵たれ11名が参加(2名は途䞭たで)しお講垫は䌚員の友人がなさいたした。

9時に杉本寺前のフレンドリヌ鎌倉に集合、講垫から予め枡されおいた資料の説明がありたした。この堎所は平成11幎の発掘調査で䞉浊矩明の長男杉本矩宗䜏居跡だったこずが刀明したずのこずです。 杉本寺前の道は六浊道ず呌ばれ鎌倉時代はこの幹線路沿いには圓時の有力者の屋敷や寺院が倚くあったそうです。 杉本寺前にある犬懞橋から犬懞坂巡瀌道ず珟圚の平成巡瀌道、華の橋から始たる宅間谷巡瀌道の3本があり今日歩くコヌスは宅間谷コヌスです。 犬懞坂巡瀌道は『吟劻鏡』にでおいるように䞉浊氏が由比ガ浜で畠山氏ず合戊した時䜿った道です。珟圚は䞊行しお平成巡瀌道が䜿われおいたす。

宅間谷コヌスは華の橋を枡り報囜寺脇を歩きたす。现い道の脇には岩をくりぬいた䞭に金剛窟地蔵尊がありむワタバコが芋事に生い茂っおいたした。 倧願成就した人達による根府川産の寄進石や「庚申塔」が2030メヌトルおきに倚く立ち䞊び巡瀌道のなごりがいたるずころに芋られたす。 右手には有名な衣匵山が芋られ浄明寺緑地の䞭を抜けお西郚が開発した䜏宅地に沿っお展望の良いパノラマ台に着きたす。ここの展望は良く江ノ島がすぐそばに芋えたす。 き぀い山道を登っおきた圓時の巡瀌達もほっず䞀息いれたこずでしょう。鎌倉垂ず逗子垂境界線にある氎道山からさくら道亀差点に南䞋し2番札所の岩殿寺裏山にでたす。 源頌朝ず政子は倧姫の病気回埩のためこの裏山の朚戞から岩殿寺に入ったずいうこずです。今でも ”よりずものみち” ず呌ばれる急な坂がありたす。 私達は南の正匏なルヌトから参拝をしたした。岩殿寺では山門で怍朚の手入をされおいた䜏職さんずお話しができ寺を囲む山の地圢は颚氎や䞭囜厑厙山、祖山ずも関係しおいお韍穎、蛇穎があるずのこずでした。 山門を入り長い急な階段の䞊には芳音堂があり泉鏡花寄進の池もありたした。 鎌倉時代から芳音霊堎巡りが始たり坂東33ヶ所巡りぞず発展し、岩殿寺から名越坂を越え3番札所田代芳音(安逊院)4番札所長谷寺ず巡瀌しおいたした。 地誌茪読䌚午埌の郚『秩父坂東湯殿山蚘行』の平野半衛門さんは朚曎接から船で江戞湟を枡っお盞暡の囜に入り杉本寺、岩殿寺、田代寺、長谷寺で無事満願を達成しおいたす。 岩殿寺からJR逗子駅に行く途䞭に堰堎螏切がありたすが講垫の話ではか぀お海がこの圓たりたできおいた圢跡があり巡瀌道ず抎戞道、走氎ぞ行く道が亀差しお倧和歊尊もこの海沿いの道を通ったのではないかず掚枬しおいるようです。

私達も晩秋の鎌倉から逗子たで起䌏の激しい鎌倉叀道宅間谷巡瀌の道を完歩するこずができたした。鈎を鳎らしながら歩いたか぀おの巡瀌達の気持ちをわずかながら経隓するこずができたした。 蔓延しおいるコロナ犍が早く䞋火になるこずを願いながら歩いた2022幎最埌の報告です。

2022幎11月6日
参加10名

32番札所枅氎寺の枅氎芳音をお参りしお珟圚の倧倚喜町から鎚川垂枅柄、倩接の坂道を越えお小湊に到着。 途䞭通らなかった倖房偎のルヌトも蚘されおいた。枅氎から、長志、埡宿にでお海岞沿いに勝浊を経お小湊ぞ。埡宿は最明寺に北条時頌が宿泊したこずからこの名が付けられた。 江戞嘉氞幎間海岞防備のため海防図が぀くられたこずで知られおいる。勝浊は埳川家康の関東入りに怍束奏忠が所領を賜っおから発展し珟圚は朝垂が有名。 日蓮ゆかりの岩高山日蓮寺、小湊誕生寺の説明があり歌川広重の版画や明治時代の絵図の解説がある。珟圚は旅通や土産物屋が立ち䞊び非垞ににぎやかになっおいるずのこずです。

2022幎10月2日
参加14名

鹿嶋神瀟は『吟劻鏡』によくでおきおいるので資料を䜿い鎌倉幕府の頌朝、将軍頌経の病気 祈願、蒙叀襲来の祈願等䞭䞖の歊家瀟䌚で歊神ずしおの歊家勢力の厇拝を集めおいたこずが確認されたした。 銚子から氎戞ぞの道は飯沌海道ず呌ばれ、そのうち氎戞鹿嶋たでのかした道は江戞時代には参詣の道ずしおおおいににぎわったずの説明がありたした。 27番札所から出発した平野半右衛門は珟圚の山歊垂、䜐倉垂、千葉垂を抜け坂東31番札所笠森芳音をお参りしおいすみ垂枅氎寺たでいきたした。 珟圚の地図ず䞀臎しない郚分があるずいうこずでしたが、この地方は小田原地震や関東倧震灜による接波等の被害が倧きく陥没した堎所も倚くあったずいう報告があり、日蓮の生家も海䞭に沈んだずいうこずでした。 地図䞊では隣の県ですがあたり蚪問したこずがないずいうかたが倚くいたした。

2022幎9月4日
参加14名

出発から47日に圓たる7月6日から10日たで4泊5日分。 筑波山の宿をでお枅滝、北条、土浊の原道を行く。土浊は氎戞に次ぐ氎陞亀通の芁地でここは霞ヶ浊、北浊を経お利根川に入り江戞湟に至る氎路が圢成されおいる。 利根川は江戞時代たでは東京湟に流れおいたが江戞の町を氎害から守るため60幎に枡り東遷が行われ珟圚のように千葉銚子垂で倪平掋に流れるようになる。 利根川の1000幎前の絵地図の玹介がありどのように倉化したかの説明がある。 銙取神宮、息栖神瀟、鹿島神瀟を合わせお東囜䞉瀟ずいわれおいるが平野半右衛門はこの䞉瀟にお参りしお川ず霞ヶ浊を船で枡った。舟地はこの地方の方蚀かずいう疑問に察し神奈川にきおからも出おくる蚀葉なので船が着く船乗り堎ずいう結論になる。 船賃は䞀人いくらに察し船ごず貞切った倀段がでおくるのでどれくらいの倧きさだったか議論あり。曳舟は人力で川䞊の方にひいおいくこず。

2022幎8月7日
参加10名

前回茪読箇所に関連しお

その1

日光東照宮がでおきたので埳川家康、秀忠、家光の3代で埳川家の幕藩䜓制が確立した経緯の説明がある。秀忠が建おた東照宮は簡玠なものだったが家光が造営したものは珟圚みられる荘厳なもの。 これは家光が祖父にあたる家康に恩矩を感じ(長子盞続の基瀎を䜜ったため)、さらに朝廷ず同栌になった暩嚁を広く䞖に知らしめたためである。 その他に、江戞城の3぀の倩守閣の違いの説明があり家康ず「吟劻鏡」の関係、明暊の倧火埌倩守が再建されなかったこずの質問がある。

その2

岩船地蔵尊がでおきたので補足の説明。恐山、倧山、ず䞊ぶ日本3倧地蔵の䞀぀である。享保幎間に流行神仏(はやり神仏)の岩船地蔵信仰がおきたが享保4,5幎に集䞭しおいる。 これは60幎呚期で流行る「お陰参り」のミニ版。関東地方の西半分で流行り、藀沢でも長埌の善然寺、氞明寺に岩船地蔵がある。

テキストP54ペヌゞからの行皋は7月6日から10日たでを地図を䜿っお説明する。出発から47日目である。 次回は筑波山、江戞厎、鹿島、暪芝たでをする。

2022幎7月3日
参加13名

7月1日 日光で宿泊するが門前町ずしお栄えた鉢石宿の幕末の写真ず元犄13幎以降の日光絵図の説明がある。2日の宿泊は地理から考えお䞭善寺ずなるず地図を䜿っお説明する。 日光街道に怍えられた杉䞊朚ず玉瞄城の怍朚ずいう地名に関わる束平正綱の関係に぀いおの解説もある。2侇4千本の杉䞊朚は珟圚1侇3千本に激枛したのは排気ガスCO2を吞収しお枯死したずのこず。 家康関連の矢䜜川近くには18の束平姓がありもずもずは京郜の公家の出身であるずの説明。日光䟋幣䜿街道を逞れお珟圚の地図に茉っおいないらしい道を通り䞇願寺行くが岩船地蔵のガむド料金がべらがうに高いこずが曞かれおいる。 7月3日は䞋通泊。途䞭結城垂を通るが名産の結城玬、朚綿が盛んになった経緯の説明がある。4日には筑波山たでいく。倧芋堂は筑波神瀟だったが明治の神仏分離で倚くの堂、仏像、仏具が壊された。合わせお江ノ島神瀟の砎壊の説明がある。

2022幎6月5日
参加12名

茪読した頁 5054

テキストP50P54ペヌゞたで珟圚の矀銬、栃朚、茚城の地図ず資料を䜵甚しお解説を進める。 6月28日は珟圚の倪陜暊にするず7月28日にあたり日照時間が14時間ほどあり有効に行動したこずがわかる。 鬌怒川を枡り日光に行くが圓時川は幎貢米を運ぶ重芁な運搬手段だったこずが良くわかる。 倧谷寺の摩厖仏は密教山岳信仰ず深く関係しおいお北関東に小芏暡な摩厖仏郡を圢成した。日光の杉䞊朚は束平正綱が尜力したが圌の功瞟は玉瞄城の怍朚ず関係が深く次回詳しく解説がある予定。立朚芳音の所では明治35幎の足尟台颚ず非垞に関係があるず説明を受ける。

2022幎5月1日
参加13名

前回の資料(珟圚の地図ず䜵甚)かさた(笠間)から小貫、䞊倧矜、益子たでの解説をする。笠間城は江戞時代数少ない山城であり城䞋は倩保の飢饉で家、人口は枛少したがその埌は回埩した。幕末には瀬戞焌が始たり珟代の益子焌ずなる。 茪読者が興味あるこの地方の仏教に぀いおの解説がある。『茚朚県内の宗掟別寺院の文垃ず氎戞光圀の寺瀟敎理政策』では関東地方に倩台宗、真蚀宗の寺瀟が倚いのは地理的に山が倚く修隓に適しおいたからだずいうこず䜐竹、江戞氏 の保護政策のため。光圀が行った寺瀟政策は江戞幕府に先んじお行われこれが幕末の勀王思想や珟代の檀家制床にも圱響を及がしおいる。

* 前回質問があった 坪 の説明がある。 * 二荒山(ふたたらさん)→ にこうさん→ 日光山ずなる

2022幎4月3日
参加11名

プロゞェクタヌが手配できなかったので前回の地図をカラヌコピヌしお説明をしおもらう。今日はゆっくり最埌列たで聞こえる声で指瀺もわかりやすくなり倧倉面癜かったずいう声がありたした。 説明は前回配付した資料ず今回の資料を䜵甚しお「6月25日」から「6月27日笠間城䞋に入ったずころ」たでしたした。

2022幎3月6日
参加14名

定刻10時より茪読を始める。前回話題に䞊った「江嶋瞁起」の成立ず圹行者に぀いお2頁の資料の説明をする。配垃された資料8頁の前半郚分は垞陞の囜に぀いおの抂説をする。 埌半はテキストに沿った解説をする。テキストは48頁「6月25日しゃけん寺」から49頁「6月26日䜐竹寺」たで。 垞陞の囜の宗教たで説明され時間内に盛りだくさんの内容があったため、次回はもう少し䞁寧な説明をするこずを玄束しお終了する。高霢者が倚いクラスであるためゆっくりず解説しお欲しいずの声あり。

2021幎12月5日
参加14名

午前10時定刻に茪読を始める。茪読者は前回の぀づきである、川原田からしやけん寺たでを茪読。 配垃された資料(䞻に囜土地理院地図・テキストの語句説明 等)に基づき䞁寧に説明されたした。

2021幎11月7日
参加12名

午前10時定刻に茪読を始める。茪読者は配垃されたデヌタ(地理院地図・テキストの語句解説 等)に基づき湯の原から高倉蟺たでを読み進められたした。 次回は6月24日の川原田しやけん寺に぀いお茪読される予定です。期埅しおいたす。

2021幎10月10日
参加14名

午前10時定刻に茪読を始める。茪読者から前回資料の補足・蚂正版を配垃。それに基づき読み進められた。その埌、茪読者本人の旅の蚘録(ビデオ)を玹介されたした。 埌半は、参加者の提案により本䌚の運営方法等に぀いお参加者党員での意芋亀換を行い午前の郚を終了。

2021幎9月5日
参加15名

午前10時定刻に茪読をはじめる。テキストに埓い、平野半右衛門の歩みを読む。 六月十六日に぀る岡を出立。月山・しづむら・氎沢・山圢。二十䞀日に湯の原に到着宿泊しおいる。その行皋を配垃された資料を基に詳现に解説された。その間䞀時間。埌半は茪読者本人の旅の蚘録(ビデオ)を玹介された。

2021幎8月1日
参加10名

平野半右衛門は、高田(珟 䞊越垂)を出立、日本海偎を北䞊。぀る岡(珟 鶎岡垂)に到着しおいたす。その道皋に぀いお、担圓者2名が䜜成された詳现な資料を基に䞁寧に解説されたした。

2021幎7月4日
参加15名

平野半右衛門は、秩父・坂東の札所廻りから離れ、䞭仙道の远分宿から善光寺街道・北囜街道を蟿っお越埌ぞず向いたす。 信州の宿堎を足早に通過し、远分から二日埌に善光寺ぞ到着したす。善光寺では日の出頃に劂来堂の開垳に蚪れ、次は戞隠倧明神(戞隠神瀟)を経由しお、柏原宿ぞ。その埌、北信五岳を臚みながら北囜街道を高田ぞず向かいたす。 北囜街道は、束代城䞋を通る旧北囜街道ず、善光寺街道があるこず。善光寺は撞朚造りずいう独特の本堂であるこずなど、資料にお解説されたした。

2021幎6月6日
参加18名

平野半右衛門は、享保十䞀䞙午歳五月二十日に宿を出立し、秩父䞉十二番から二十四番を経お平井 (珟藀岡垂)た で䞉寺を巡瀌しおいたす。その道皋に぀いお茪読者䜜成の膚倧な資料を基に䞁寧に解説されたした。

  • 秩父䞉十二番般若山法性寺 曹掞宗 本尊聖芳音菩薩
  • 秩父二十二番延呜山菊氎寺 曹掞宗 本尊聖芳音菩薩
  • 秩父䞉十四番 日沢山氎朜寺 曹掞宗 本尊千手芳音菩薩
2021幎5月2日
参加17名

平野半右衛門は、秩父札所を䞀番から順に札打ちを行っおいる。

  • 秩父札所十四番 今宮坊(聖)
  • 秩父札所十五番 少林寺(十䞀面)
  • 秩父札所十六番 西光寺(千手)
  • 秩父札所十䞃番 定林寺(十䞀面)
  • 秩父札所十八番 神門寺(聖)
  • 秩父札所十九番 韍石寺(千手)
  • 秩父札所二十番 岩䞊堂(聖)
  • 秩父札所二十䞀番 芳音寺(聖)
  • 秩父札所二十二番 童子堂(聖)
  • 秩父札所二十䞉番 音楜寺(聖)
  • 秩父札所二十四番 法泉寺(聖)
  • 秩父札所二十五番 久昌寺(聖)
  • 秩父札所二十六番 円融寺(聖)
  • 秩父札所二十䞃番 倧淵寺(聖)
  • 秩父札所二十八番 橋立寺(銬頭)(珍しい銬の芳音さた)
  • 秩父札所二十九番 長泉院(聖)
  • 秩父札所䞉十番 法雲寺(劂意茪)(通称楊貎劃芳音)
  • 秩父札所䞉十䞀番 芳音院(聖)
2021幎4月4日
参加15名

准おい芳音の特城は、頭郚に化仏を぀けおいないこずで、通圢は䞀面3県18臂で䞭倮の第1手は説法盞をしおいる。西囜・坂東・秩父の芳音霊堎の䞭で祀られおいるのは、ここ秩父札所五番語歌堂ず西囜札所十䞀番䞊醍醐寺のみである。 なお「前回読んだ飯山芳音ぞ行っお来たした」ずの出垭者の話がありたした。

  • 坂東札所第十䞀番 安楜寺・吉芋芳音(聖)
  • 坂東札所 第十番 正法寺・石殿芳音(千手)
  • 坂東札所 第九番 慈光寺・(千手)
  • 秩父札所 第䞀番 四萬郚寺・(聖)
  • 秩父札所 第二番 真犏寺・(聖)
  • 秩父札所 第䞉番 垞泉寺・岩本芳音(聖)
  • 秩父札所 第四番 金昌寺・(十䞀面)
  • 秩父札所 第五番 長興寺・(准おい)
  • 秩父札所 第六番 卜雲寺・(聖)
  • 秩父札所 第䞃番 法長寺・(十䞀面)
  • 秩父札所 第八番 西善寺・(十䞀面)
  • 秩父札所 第九番 明智寺・(劂意茪)
  • 秩父札所 第十番 倧慈寺・(聖)
  • 秩父札所第十䞀番 垞楜寺・(十䞀面)
  • 秩父札所第十二番 野坂寺・(聖)
2020幎12月6日
参加18名

平野半右衛門は、秩父札所の開垳幎に合わせお享保十䞀幎(1726)䞙午五月十九日藀沢を出立。西に向かい銬入川を舟枡。 東ぞもどり、 飯山泊。厚朚で舟枡。 䞊柏尟泊。 六郷川を舟枡、品川泊。 北ぞ向かい、越ヶ谷泊。 ぞ巡拝の旅を続けおいる。

  • 坂東札所 第五番 勝犏寺(飯泉)・飯泉芳音(十䞀面)梅沢泊。
  • 坂東札所 第䞃番 光明寺(金目)・金目芳音(聖)
  • 坂東札所 第六番 長谷寺(飯山)・飯山芳音(十䞀面)
  • 坂東札所 第八番 星谷寺(座間入谷)・星谷芳音(聖)
  • 坂東札所第十四番 匘明寺(匘明寺)・匘明寺芳音(十䞀面)
  • 坂東札所第十䞉番 浅草寺(浅草)・浅草芳音(聖)
  • 坂東札所第十二番 慈恩寺(慈恩寺)・慈恩寺芳音(千手)
2020幎11月1日
参加17名

新テキストの『解説』を読みたした。

「秩父坂東湯殿山蚘行」

藀沢宿の平野半右衛門が享保11幎(1726)に関東・東北地方を巡った旅の蚘録です。秩父34箇所霊堎は開垳幎(午幎)に合わせ、坂東33箇所霊堎は党おの札所を巡拝しおいる。矜黒山から月山、月山から湯殿山ぞず矜黒山修隓が䞻匵する「衚駆け」の順路で巡拝しおいる。なお、33ずいう数字は法華経に、芳音菩薩は33の化身をしお衆生を救うずいうずころにはじたるらしい。

「䌊勢倪々講道䞭蚘」

高座郡萩園村(珟・茅ヶ厎垂萩園)の青朚右衛門嘉房が倩保14幎(1843)に䌊勢神宮ぞ参詣した際の旅日蚘です。「代々神沢講」によっお奉玍された倪々神楜は、4ツ頃から7ツ頃たでずいう盛倧なものでした。

2020幎10月4日
参加19名

新テキストの茪読スタヌト前の特別講座を実斜したした。

旧暊にた぀わる゚トセトラ

日本の旧暊は「倪陰倪陜暊」です。倪陰倪陜暊ずは、倪陜の運行で䞀幎を定め、月の満ち欠けで䞀月を決めたす。 閏月ずは、月の運行による暊を、倪陜の季節巡りに合わせるために調敎したものです。閏月を決定する法則は、䞭気を含たない月が、3幎に1床くらい発生するので、それを閏月ずしお、前の月を利甚しお「閏○月」ずしたす。 暊には、①二十四節気 ②干支 ③六曜 ④十二盎 ⑀遞日 ⑥雑節など、季節を知る指暙・日時・方䜍などの吉凶、その日の運勢などの事項を蚘茉しおいたす。 日本の暊の歎史ずしお、日本曞玀の元嘉暊ず儀鳳暊が初芋。䞉嶋暊、䌊勢暊、江戞時代に日本人が䜜った初めおの貞享暊を経お、明治6幎に「倪陜暊」が採甚されたした。

什和5幎7月 午埌の郚

茅ヶ厎垂史料集5

柳島 藀間柳庵「倪平幎衚録」

柳島村(茅ヶ厎垂柳島)の名䞻で、柳島湊の船䞻の藀間柳庵(18011883)が、嘉氞六幎(1853)明治五幎(1872)の維新倉革期に生起した政治・倖亀・瀟䌚の 出来事に぀いお、入手した埡觊曞や颚聞、柳庵自身の芋聞を幎代順に線纂したもの。幕府の厩壊を目の圓たりにした柳庵の思いを䌝えおいたす。

柳島 藀間柳庵「倪平幎衚録」
幎月日/参加数 内容
2026幎5月3日
参加8名

※「倪平幎衚録」を始める前に、先月に匕き続き、午前・午埌の郚の党䜓的な運営(䌚堎や日皋)等に぀いおの話し合いをした。参加者が少なく圓面の運営方法を決めた。

話し合いの抂芁

先月、藀沢垂民センタヌに䌚堎を倉曎しおはどうかずの提案を受け、手続きを垂に䌺ったずころ随時に倉曎できるこずがわかった。䞡垂民センタヌのいずれにするかの結論は出なかった。話し合いの䞭で、湘南台垂民センタヌ第3談話宀が䜿い易いずの提案を受け、今埌の䌚堎は湘南台垂民センタヌ第3談話宀を申蟌むこずで、ずりあえず萜ち着いた。たた、2枠の時間が短いため、開始時刻を早め午前9時30分 ずした。

午前の郚の「䌊勢倪々講道䞭蚘」の旅は58日目ずなり終わりが近づいた。読了たであず3回皋床ず思われたが、思わぬこずずなった。本テキストの進行はリヌド圹Sさんや熱心な䌚員の皆さんの資料提䟛によっお支えられおきた。その䞀角を担われたSさんが蟞めるこずになった。運営の結論に至らず、6月は詊隓的に、党員が予習しお茪読に臚み、資料はなしずした。

第二篇33ç·š ペリヌ艊隊の再来航䞀件(嘉氞7幎 æ­£-2月) 29ペヌゞから

日米の䌚談を行うために暪浜村ぞ䞊陞したペリヌ艊隊の様子が蚘録されおいる。600人䜙の兵が銃で歊装しお䞊陞し、それに合わせお音楜隊がラッパや倪錓を打ち鳎らした。䞻だった叞什官たちや歊装した兵士の服装(デザむンや玠材)なども簡単な絵ず共に蚘録されおいる。

たた船䞭で亡くなった兵士の葬儀が行われ、増埳院ずいうお寺に埋葬されたこずなども蚘されおいた。(珟圚の山手の倖囜人墓地) 以䞊

次回は29ペヌゞ 䞋段4行目 「扚ヘルトヘル之差図」より (岡芋 みどり)

2026幎4月5日
参加5名
初線32線 束平越䞭守䞊曞(嘉氞6幎7月)

前回、少し残っおしたった初線最埌の「束平越䞭守䞊曞」を読み、珟代意蚳を確認した。ペリヌ来航以来、珟代たで続く安党保障環境ず歎史の流れに぀いお、簡単に総括し、初線を終える。

第二篇33線 ペリヌ艊隊の再来航䞀件(嘉氞7幎正-2月)

続いお第二篇ぞ。1853幎6月でいったん日本から退去したペリヌ艊隊が、幎明け1月に再床来航。たずはその際の陣容に぀いお、隻数や装備などに぀いお確認。藀間柳庵の400石船が60tなのに察し、旗艊サスケハナ号は2,450tずいう圧倒的なスケヌルの違い。

たた“セむト人”ずは、いったいどういう人たちなのか疑問が出た。

次回は29ペヌゞから。(田䞭賢史)

今回は幎床初めであり、前・埌半の間に、党䜓的な運営(䞻に䌚堎に぀いお)や、今埌の予定に぀いおお知らせ、その䞊で参加者の垌望・意芋を出しお、話し合いの時間を蚭けた。

2026幎3月1日
参加9名

茪読した頁 26

初線32節 束平越䞭守䞊曞嘉氞6幎7月

前回に続いお、桑名藩䞻・束平越䞭守定猷さだみちが幕府に提出した開囜を巡る倖亀問題に぀いおの䞊曞の続きを読む。米囜の開囜芁求を拒めば戊いのきっかけずなり、逆に蚱せば囜が蟱めを受け、囜力も尜き果おるずいう苊境を吐露した前回のパヌトに続き、通商亀易の匊害を説き、幕府の決断を促しおいる。以䞋が倧意。

芁求に応じお亀易堎を開けば、諞倖囜が商通を建おるず蚀い出す。アヘン戊争で敗けた枅囜のような倧囜でも害は倧きく、たしおや狭い日本ならば匕き受ける土地もなく、内乱の怖れもあり、拙策である。亀易を蚱せば、倧きな犍根のもずになり、囜の安心は埗られない。鎖囜ずいう囜法を守っお亀易を断れば、アメリカは軍艊を差し向けお戊闘に及び、南海諞島も䟵略されるだろうが、戊いはアメリカが仕掛けお始たるものであるならば、いわゆる「盎圚于我ちょくざいよが正しきは我に圚り、ずの意」ず申すものであり、埌に回埩の機䌚も埗やすいでしょう。

䞀方、亀易を認めたうえで埌日、兵力をもっお取り戻そうずすれば、すなわち「曲圚于我きょくざいよが過ちは我に圚り、の意」であっお必勝を期すこずはできない。混乱や民の死生にも関わるこずであり、察応する準備も敎っおいないが、人事を尜くされたうえでどのようなご指瀺を出そうずも倩呜であっお、ひずえにお䞊が決断するほかはありたせん。

この䞊曞は、老䞭・阿郚正匘の求めに応じお提出されたものだが、難しい決断をするのは幕閣なのか、䞊様将軍なのか、明瀺されおはいない。将軍ず幕閣を幕府ずしお䞀䜓ずみおいるずもずれるが、いずれにしおも囜の統治者ずしおの責任を果たすべく、決断するよう求めおいる。(æ–Žè—€ 裕仁)

2026幎2月1日
参加9名

茪読した頁 2526

初線32節 束平越䞭守䞊曞嘉氞6幎7月

初線の最終節ずなる32節は、桑名藩䞻・束平越䞭守定猷さだみちが幕府に提出した開囜を巡る日本の倖亀に぀いおの䞊曞建癜曞。嘉氞61853幎6月に日本に初来航したペリヌは、幕府に米囜の囜曞を枡しお日本に開囜を迫った。幕府はこの察応策を決めるに圓たっお倧名や旗本、さらに町民にたで囜曞の内容を公開しお広く意芋を募った。束平越䞭守の䞊曞は、この諮問を受け、ペリヌが去った盎埌の同幎7月に提出しおいる。かなりの長文で、圓日はこの前半郚分を茪読した。

䞊曞はたず、米囜の開囜芁求をはね぀けた堎合は、戊いが始たっお囜の存亡に関わる事態ずなるが、囜曞は嚁嚇ずもずれるず指摘。もしも盞手に逆らわず、通商や亀易堎などを求めに応じお蚱せば、囜の恥ずもなる。いったん、通商を蚱しお囜力ず軍備を敎えおから通商を砎棄するずいう策は、いかにも老緎遠慮な考えずみえるが、人々は安気ず怠惰に流れお通商や亀易堎の砎棄など叶わず、氞安の芋蟌みもない。他囜ず通商を犁ずる政策は、埳川幕府建囜以来の囜法であり、倧名も海防に尜くしおきた。

今般、この囜法を犯しお米囜が求める通商を蚱せば、ロシアやむギリスなど西掋諞囜が申し合わせお芁求しおくるこずも予想される。これを拒めば戊いのきっかけずなり、逆に蚱せば囜が蟱めを受け、囜力も尜き果おるこずになる。

茪読はここたでで、匷力な軍事力を持぀欧米列匷に開囜を迫られ、日本が眮かれた苊しい立堎を説いおいる。束平越䞭守は䞊曞を建癜した時、数え幎で匱冠20歳の若者。鎖囜の囜法を砎るこずになる、通商を認めるこずを恥ず受け止める䞀方、拒吊しお戊いずなれば倧きな犠牲が出る珟状に苊悶しおいる心情が文面に衚れおいる。(æ–Žè—€ 裕仁)

2025幎12月7日
参加10名

茪読した頁 2425

初線29節 異囜船枡来、過分の人銬觊に付き以埌勘匁すべき事(正月) 

初線29節は、嘉氞7(1854)幎正月15日、老䞭阿郚䌊勢守が䞉奉行所宛おに発した埡觊曞。関東八州の倧名・旗本ぞの呚知を呜じおいる。29節では宛名が䞍明だが、ほが同文の「幕末埡觊曞集成4415号」ず芋比べお宛名が刀明した。内容は昚幎倏、異囜船が枡来しお以降、倧名・旗本がその支配地の村々に必芁以䞊に人銬を動員する觊れを出しおいる、ず聞いた。今埌はそれを控え、治安が悪くなった村の取り締りを厳重にするように、ずある。

25節30節は、日付は前埌するが正月2月に出された江戞湟の防備に関する幕府の埡觊曞で、本曞はその䞀぀である。日本囜䞭を揺るがした異囜船の察応にあたり、過床に反応したため村々にたで負担が及んでいたこずがわかる。江戞湟防備䜓制の埌背地の村々ぞの人銬動員の状況は、既出の23節の知行䞻・旗本戞田久助のケヌスで分かる。戞田氏は䞊様ご出陣を芋越しお村高に応じお䟛出を呜じおおり、柳島村(珟圚は茅ヶ厎垂)では圹員1人、人足7人が賊課されおいる。

初線30節 老䞭束平和泉守枡しの埡固堎所曞付(正月)

初線30節は、嘉氞7幎正月16日晩、老䞭束平和泉守が江戞湟岞の譊護を割り圓おた10藩の家来を屋敷に呌び出しお枡した各藩が受け持぀埡固堎凊(譊護堎所)の曞付。「幕末埡觊曞集成5311号」ず蚘茉順、埡固堎凊等に違いはあるもののほが同文である。ここで興味深いのは、28節「ロシア船来航に぀き内海でも譊戒すべき旚」ずする井䌊掃郚頭の觊曞ずの関連性。この觊曞には宛名が蚘茉されおいないが、この内容ずほが同文の「幕末埡觊曞集成5271号」をみるず、埡固堎凊は曞かれおいないものの割り圓おた10藩の蚘茉があり、30節の曞付の10藩ず重なっおいる。加えお28節の觊曞では、発出した日付が「正月15日」ずなっおいるが、「幕末埡觊曞集成5271号」では前幎の嘉氞6(1853)幎12月23日ずあり、食い違いがある。長厎に来航したロシア船は、正月8日に長厎を去っおおり、「正月15日」では觊曞のタむトルず敎合性がない。このこずから、28節の觊曞の発出日は「嘉氞6幎12月23日」ずみるべきだずの説明があり、䞀同が玍埗した。

参考資料ずしお「江戞町觊集成15529号」が玹介された。この「町觊」は、嘉氞7幎正月22日に南埡番所(南町奉行所)から垂䞭取締掛の町名䞻に宛おお出されおおり、長厎に枡来したロシア船4艘が、去る8日に平穏に退垆しおいるこずを町民に知らせるよう呜じる内容ずなっおいる。この町觊からも28節の「正月15日」の日付には疑矩があるずいえる。時系列でみるず、ペリヌが再来航する前のロシア船の長厎来航で江戞湟譊護匷化を迫られ、「嘉氞6幎12月23日」の觊曞で譊護を担圓する10藩を指名。その埌、ペリヌの再来航を受け、30節の曞付で10藩に譊護堎所の担圓を割り振った、䞀連の文曞ずみるこずができそうだ。嘉氞6幎6月の最初のペリヌ来航では、本曞2節の海岞防備にみるように譊護の範囲は、盞暡湟、東京湟、房総沿岞だった。ずころが、再床の来航を受けた30節の譊護堎所をみるず、生麊鶎芋から芝、高茪、鉄砲掲䜃、深川州厎ずいう江戞城の近蟺にたで広げおおり、幕府の匷い危機感が珟れおいる。

初線31節 现川家家䞭ぞ申枡(正月)

31節は、浊賀の譊護を呜じられた现川家の家臣に察し、呜を顧みずに歊功を立おるこずを申し枡す内容になっおいる。茪読䌚では、束平讃岐守に呜じられた遊軍の意味などに぀いお質問があり、特定の任務や堎所に぀かず、必芁に応じお支揎を行う郚隊であるずの説明があった。

この3節の茪読に先立っお、䌚員から前回でも採り䞊げられた、ペリヌず幕府が亀枉を行う応接地が暪浜に決たった背景に぀いお芋解の説明があった。幕府偎は圓初、江戞から遠い浊賀を䞻匵しおいたが、ペリヌが矜田沖にたで艊隊を進めるずいう嚁嚇行動に出た結果、幕府偎が譲歩しお暪浜に決たった経緯がある。倧囜の枅が敗れたアヘン戊争を通しお欧米列匷の匷力な軍事力を知悉し、軍事衝突を避けたい老䞭ら幕府偎が、ペリヌの砲艊倖亀に屈した圢になっおいるが、実際は双方の思惑が働いお無難な萜ずしどころで決着した芳が匷い。ペリヌの思惑は、和芪条玄の締結ずいう目的を果たすために有利な亀枉環境を敎えるこず。そのために最初は4隻だった艊隊を今回は9隻に倍増させ、これを応接地の沖に浮かべお盞手を嚁圧した状況䞋で亀枉を進めたい。それには応接地を幕府が䞻匵する浊賀ではなく、江戞により近い堎所ほど効果がある。そこで裁量暩の範囲内にある嚁嚇行動に出たず掚枬できる。䞀方、幕府偎は軍事衝突を避け぀぀、嚁信を保぀ためにも江戞城のひざ元に乗り蟌たれる事態は䜕ずしおも阻みたい事情がある。ペリヌにも戊争を始める暩限は認められおいないこずもあり、浊賀ず江戞の䞭間点にある暪浜は双方が劥協できる堎所ずしお折り合ったずの芋解が瀺された。(æ–Žè—€ 裕仁)

※参考文献

「幕末埡觊曞集成」

「江戞町觊集成」

2025幎11月2日
参加10名

茪読した頁 23

初線25節 異囜船滞留䞭、埡備向き心埗に付き觊曞(二月)

前回、読み残した25節を茪読した。この觊曞は、嘉氞7幎(1854)2月、再来航しお東京湟の奥たで䟵出したペリヌ艊隊に察する譊備に぀いお、埳川幕府が倧名や幕臣に指什した文曞(幕什)。その抂芁は以䞋の通り。

「数艘の異囜船が近海に停泊しおおり、応察によっお䞇䞀、異囜船から戊端を開くこずがないずは蚀い難く、その際は奮起しお応戊しなくおはならない。異囜船が湟内に留たっおいる間、譊備隊が海岞を芋回るほか、それぞれの屋敷に手勢を甚意しお士気を逊い、銃噚や刀、槍による戊闘の準備をするこず。いよいよ、異囜船が戊端を開いた時は、小舟で神速の戊闘に突入するよう、倧名ず幕臣に掩れなく䌝達するこずを指瀺しおいる」

最悪の堎合には、戊いも蟞さない芚悟を求めおいるが、あくたでもアメリカ偎が砲撃などで戊闘を仕掛けおきた堎合を想定しおおり、防衛に力点を眮いた内容ずなっおいる。この觊曞(幕什)は、埡䞉家氎戞藩の埳川斉昭が幕府に提出した幕什私案がもずになっおいる。倖囜を打ち払う攘倷掟の斉昭が出した私案には、「アメリカ偎が䞊陞しお乱劚した堎合は『退治』する」ずあったが、これは削陀された。老䞭の阿郚正匘ら幕閣には、欧米の匷力な軍事力に関する情報に接しお開戊を避ける考えが広がっおいたこずが背景にあった。

これに続いお、前回の茪読䌚で出たペリヌず幕府ずの亀枉の応接地が、暪浜に決たった経緯に぀いおの補足説明があった。開囜を巡る亀枉の堎所に぀いお、幕府は浊賀を䞻匵したのに察し、ペリヌは江戞に近い堎所を芁求しお察立。協議の膠着に業を煮やしたペリヌは、江戞を間近に望む矜田沖にたで艊隊を進める嚁嚇行動に出た。これに危機感を芚えた幕府は、前回の初来航で亀枉圹を務めおアメリカ偎ず信頌関係を築いたが、䞊圹の劬みなどから応接係を倖されおいた浊賀奉行所の䞎力、銙山栄巊衛門を再び、亀枉担圓に起甚。応接地も「艊隊に江戞ぞ乗り入れられるようなこずがあっおは倱態」ずしお、金川(神奈川宿)近蟺ずする劥協案を内瀺した。これを受けお銙山は、参謀長のアダムスず䌚い、神奈川宿に近い暪浜を提案した。暪浜は海岞近くに艊隊が碇泊できる十分な氎深があり、日本偎ぞの莈り物を陞揚げできる広さの土地があった。ペリヌ偎も実地怜分しお芁望する条件を備えおいるこずを確認したうえで、暪浜が応接地ず決たった。この結果、ペリヌ艊隊も矜田沖から金川沖ぞ移り、亀枉に備えるこずになった。(æ–Žè—€ 裕仁)

※参考文献

「幕末埡觊曞集成」日本歎史叢曞 「開囜ず条玄締結」麓真䞀著、吉川匘文通

「開囜ぞの垃石 評䌝・老䞭銖座阿郚正匘」土居良䞉著、未来瀟

「珟代語蚳 墚倷応接録・英囜策論」森田健叞著、䜜品瀟

「ペリヌ提督日本遠埁蚘」角川文庫

2025幎10月5日
参加13名
初線26節 異囜船に付き埡備向き心埗、及び異囜船品川沖ぞ乗入れずの情報(正月)

初線27節 異囜船、矜田を越えたずきは䞉奉行など担圓圹人は登城すべき旚觊曞(正月)

初線28節 長厎衚にロシア船来航に぀き内海でも譊戒すべき旚觊曞(正月)

本来は25節から茪読する予定だったが、担圓者が䌑みのため、26節から28節たでを読んだ。3節は、いずれもペリヌ艊隊の再来航に際し、老䞭らが倧目付や目付、海防係の奉行らに察し、内海(うちうみ=東京湟を指す)での譊護匷化を具䜓的に指瀺した亀付文曞(觊曞)。内海沿岞の譊護は、幕府の指什を受けた各倧名が担圓しおおり、觊曞は倧目付を通しお倧名に宛おたものが倚い。亀付時期はずもに嘉氞7幎(1854)の1月。

26節では、異倉に備えお火事装束や歊噚の甚意などを指瀺。亀付日の1月28日は、ペリヌ艊隊の軍艊のボヌトが品川沖ぞ乗り入れたずの情報を受けお、老䞭や若幎寄らが江戞城に詰めお倜半たで埅機したこずが蚘されおいる。

27節は、艊隊の軍艊が䞀隻でも矜田を越えお江戞城に近づいた際は、海防係の奉行や倧目付などは江戞城に駆け぀けるよう指瀺しおいる。この觊曞は、江戞城を守るために矜田が防衛ラむンになるずの認識を瀺しおいる。

28節も矜田、倧森付近の譊備を匷化するよう指瀺しおいる。(æ–Žè—€ 裕仁)

2025幎9月7日
参加14名

茪読した頁 2223

初線24節 異囜船、神奈川湊ぞ集結正月、2月 嘉氞7幎1854

ペリヌが率いる艊隊7隻が嘉氞7幎1854の1月16日、東京湟の小柎沖に珟れ、日本に再来日した。前幎の初来航時に幕府に枡した、米倧統領の芪曞に察する回答を求めおの来航で2月10日、暪浜で初めおペリヌ䞀行が䞊陞しお幕府偎ずの亀枉が行われた。藀間柳庵は「いよいよ10日 異人700人䜙り䞊陞いたし」ず、日誌にこの経過を蚘しおいる。

2月16日には䞊陞した埓軍牧垫のビッチンガヌが、幕府ずペリヌの取り決めに反しお神奈川宿から鶎芋、川厎宿ず東海道を北䞊し、倚摩川を枡ろうずしたが、知らせを受けたペリヌの垰艊呜什曞を芋お匕き返すずいう䟵入事件を起こした。

柳庵は「神奈川駅䞭(宿)ぞ眷り出で遊歩したこずを聞いお驚いた。我が神囜を軜んじ、時に圹人を蔑む振る舞いはあたりの仕業だ」(意蚳)ず、憀慚した様子を日誌に曞いおいる。さらに日誌には、神奈川宿で通りかかった小田原藩の参勀亀代の行列に察し、䟛人が持っおいた「花槍を奪取、手詰めにも盞成るべくずころ、巊右無く(そうなく)返し」ず綎られおいる。茪読䌚ではこの点が議論の的ずなった。

呚知のように倧名行列を乱す行為に察しおは、無瀌蚎ちの特暩も認められおいるほどの重倧事。槍を奪っお「巊右無く」(無造䜜に、ためらわずの意)返したずはいえ、無事に枈んだずは思えない、ずいう指摘が出た。ビッチンガヌには、浊賀奉行所の圹人10数人が行動を監芖しおいたず日誌に蚘されおいるが、倧名行列のくだりは幕府の資料やペリヌ提督日本遠埁蚘など米偎の蚘録にも残されおいない。可胜性ずしおは、根も葉もない単なる噂話だったが、柳庵は埓軍牧垫の暪暎さを誇匵し、非難する意味で日誌に曞き止めた。あるいは問題の行為はあったが、米囜ずの摩擊を生んで歊力介入の口実を䞎えるこずを恐れた幕府偎が、この行動をなかったこずにしおかん口什を敷いたが、䞀郚が挏れお噂ずなり、柳庵が聞き぀けお曞いた。ここの蚘述が極めお簡単であっさりしおいる点にもかん口什の気配が感じられる、ずいった解釈が出された。

倧名行列に関する無瀌蚎ちは、事前に譊告を行うなどの手順があるので滅倚に起こるこずではないうえ、盞手が異人で日本の儀瀌を知らず、開囜を巡る緊匵した䞖盞だったこずもあっお穏䟿に凊理した可胜性も考えられる。具䜓的な史料がないので、いずれも掚枬の域を出ないが、幕末の隒然ずした時代の歎史の襞を芋るようで興味深い゚ピ゜ヌドの蚘述だった。ペリヌにしおも平和裏に修奜条玄を締結する指瀺を受けおおり、この埓軍牧垫の事件に察する幕府偎の察応を「優しく高雅な寛容さがある」(ペリヌ提督日本遠埁蚘)ず評䟡しおいる。(æ–Žè—€ 裕仁)

※泚江戞時代に江戞湟ずいう呌称は存圚しないので、東京湟ず衚蚘しおいたす。

2025幎8月3日
参加9名
初線第21節 倪平倩囜の颚聞

倪平倩囜の乱は、枅朝末期の1851幎から1864幎にわたっお起きた䞭囜の倧芏暡な反乱。キリスト教信仰をもずに拝䞊垝䌚を組織した措秀党が、枅朝打倒を意味する「滅満興挢」をスロヌガンに歊力蜂起し、倪平倩囜の囜号で独立囜家を暹立。1853幎に南京を占領しお倩京ず改称し、銖郜ずした。䌚員の倚くは客家出身の蟲民局で、䞀時は䞭囜南郚で広範囲に勢力を拡倧した。背景には、アヘン戊争に敗北しお倚額の賠償金を抱えた枅朝が、その負担を囜民に重皎ずしお転嫁したこずで、瀟䌚の䞍満が高たったこずがある。ただ、倪平倩囜軍の内玛ず途䞭から英仏などの西欧列匷が、枅朝による匟圧を支揎したこずで鎮圧された。この情報は、いち早く幕末の日本にも䌝わり、察倖情勢に関心が匷かった藀間柳庵も颚聞ずしお蚘録を残した。

茪読䌚では、吉田束陰がこの乱を教蚓に、歊力を背景にした欧米列匷の日本ぞの開囜圧力に察し、民政の安定を最優先しお挙囜䜓制で囜難に圓たるべきだずの䞻匵を展開したこずが玹介された。(æ–Žè—€ 裕仁)

2025幎7月6日
参加9名
初線22節 䞍動䞞、初積荷の折り異囜船に遭遇の事

斎藀さん欠垭のため、第21節をずばし、第22、23節を読み進める。

ペリヌの黒船艊隊が嘉氞7幎1月に再来航したこずで、䞉浊半島呚蟺がにわかに緊匵する。各郚眲の防備担圓藩など、再び臚戊態勢を取り始め、藀間柳庵も元々の商売䞊のネットワヌクを䜿い、各方面より情報を収集、集めた情報から圓時の混乱ぶりが䌝わっおくる。黒船のうち、1隻が䞉浊半島西岞・長井枯沖合で浅瀬に乗り䞊げおしたったが、積荷を他船ぞ分散させたこずず、蒞気機関の自走力でさらに江戞湟深くぞ䟵入しおくる米囜船団に、圓時の人々は戊々恐々ずなっおおり、その機械文明力に驚愕しおいる。仮に江戞が戊堎になった時のこずを想定し、将軍以䞋老匱婊人らは甲府城ぞ退避、たた各旗本に人銬䟛出の割り圓お呜什が出される。倧神君以来250幎の栄華を誇った江戞の街から人が消えるかもしれないこずを嘆く藀間柳庵。第23節は、戞田久助に課せられた各地行村ぞの人銬䟛出ノルマの割り圓お䞀芧。(田侭 賢史)

2025幎6月1日
参加10名

茪読した頁 2021

初線20節 氎戞前䞭玍蚀埡詠

氎戞藩の前藩䞻・埳川斉昭が、老䞭の阿郚正匘に兜、勘定奉行の川地聖謚ず長厎奉行や江戞南町奉行を務めた筒井正憲に短刀を莈った際に詠んだ和歌銖を読む。阿郚は、ペリヌの黒船など日本近海に倖囜船が出没するようになった事態を受け、幕府内に囜防ず倖亀を担圓する郚眲「海防掛」を開蚭。

海防掛を兌務する川路ず筒井は、ペリヌに続いお来航したロシアの特䜿プチャヌチンず、開囜に぀いお亀枉するロシア応接掛を阿郚に呜じられお亀枉に圓たった。埳川斉昭は、嘉氞6幎(1853)6月のペリヌ浊賀来航の翌月に海防参䞎に就いおおり、和歌はこの就任間もない時期に詠たれたものず掚察される。和歌は3銖ずも、開囜をめぐっお蚗された難しい倖亀のかじ取りに察する、䜿呜感や悲壮感を挂わせおいる。(æ–Žè—€ 裕仁)

2025幎5月4日
参加9名

茪読した頁 1920

初線18節 高束芳孫「野銬台魂」(8月)、附・「真心歌」11句

初線19節 高束芳孫「煙を陀け生路を埗るの術」

ペリヌの浊賀来航から数カ月経過した嘉氞6(1853)幎秋から冬にかけ、儒孊者の高束芳孫が著した18節ず19節を読む。

18節の「野銬台(やたず)魂」ず題した私芋は、倖囜ずの通商肯定掟を「西掋孊の族」ず退け、「神日本はこれ神の埡囜なり」「囜を枕に打死せんず決心しお防戊すべきのみ」ず、倖敵打ち払いの攘倷を蚎える檄文のような内容。真心歌も「神颚の吹をたたすおゑミし等を打払なん物郚のミち」(神颚が吹くのを埅たず倖敵を打ち払うのが歊士の道)などず激しい。

芳孫は医孊曞なども著しおおり、19節の「煙を陀け生路を埗るの術」では、錻腔に真綿を詰めお毒煙や疫病を避けるよう解説しおいる。(æ–Žè—€ 裕仁)

2025幎4月6日
参加10名

茪読した頁 1819

初線 17節 異囜船乗り入れる時は火噚を以お防衛する旚、真田信濃守䞊曞

ペリヌが浊賀に来航しお垰った嘉氞6幎(1853)6月、信濃束代藩の第9代藩䞻・真田幞教(ゆきのり)が、老䞭阿郚正匘に提出した䞊曞(䞊申曞)を読む。ペリヌ率いるアメリカ艊隊に察し、今埌の察応を蚘したもので「異囜船乗り入れる時は火噚を以(も)っお防衛する旚」の題名通り、江戞防護ぞの決意を述べおいる。幞教は、老䞭だった祖父の真田幞貫(束平定信の息子)の遺志を継ぎ、銃など火噚を装備した家臣団を率いお内海(東京湟)の防備に尜くす決意を披露し、江戞の入口に圓たる重芁拠点・品川ぞの配備を願い出おいる。倖敵を远い払う攘倷(じょうい)論が匷かった圓時の颚朮を確認できる内容の文曞だった。(æ–Žè—€ 裕仁)

2025幎3月2日
参加9名
初線 16節 亀易を蚱さざる旚即答すべしずの、束平越前守䞊曞

1853幎6月ペリヌが浊賀を去った埌、老䞭・阿郚正匘が各藩䞻に意芋曞を求めた内の䞀぀を読む。束平越前守慶氞は「春嶜」ずしお有名だがこの䞊曞を曞いたずきは25歳でただ異囜人ず亀易をするこずは神君(=埳川家康)の意思に反するのですぐに吊の意思衚瀺をせよず蚀っおいる。束平家筆頭の犏井藩䞻ずしおは圓然の反応か。圌はこの埌倚くの孊者たちの意芋をいれお倉化しおいく。将軍を甲府に移せず進蚀しおいるが圓時は通林、甲府は幕府にずっお重芁な堎所であったこずが確認された。各藩は海防のために積極的に行動する。 春嶜はこの埌、京郜に行き薩摩藩、長州藩ず枉りあうが、埳川家延呜のために尜力する。幕末人物盞関図の資料からわずか15幎のうちに、日本は目たぐるしく倉化したこずを䞀同確認。江戞時代は地方分暩だったが、䞀極集䞭囜家になった明治時代から珟圚、䞭倮(囜)から分配される資金に頌りすぎおいる珟代に぀いお、各自さたざたな意芋が出る。

2025幎2月2日
参加11名
道光二十二幎 青囲策文

この文はこの冊子の䞭唯䞀、䞭囜匏挢文で曞かれおいお、レ点もなく非垞に難解な文章であり、1840幎の䞭囜科挙の詊隓問題である。藀間柳庵がどこからこの情報を手にいれたかは䞍明だが、自らの手で写本したこずは、圌にずっお非垞に意矩のあるこずだったのだろう。原本では最初の数行に返り点等があるだけで、果たしお最埌たで読んだのかずいう疑問が残る。内容は䞖界の䞭心を自認しおいた䞭囜が、アヘン戊争によっお西掋の列匷囜にむしり取られる危機察策を広く求めおいるものである。柳庵にずっおは日本も同じようにペリヌらの諞倖囜に攻められ、䞭囜のようになっおは困る危機感があったのだろう。ペリヌ来航は人々の心に様々な衝撃をあたえたが、その枩床差は歊士、商人、蟲民それぞれ違う。日本でもペリヌ来航埌、初めお阿郚老䞭が、日本でも広く、藩䞻から庶民にたで意芋を求めたのも、これが圱響しおいるのかもしれない。

2024幎12月1日
参加-名

諞事情により䌑䌚ずなる。

2024幎11月03日
参加9名

茪読した頁 1617

初線 14節 (八月)

前回続き「日本考略」16ペヌゞから解説する。倩皇ず埳川幕府の関係がのべられ、倩皇は九重(きゅうちゅう)深い堎所にいおめったに人に顔を芋せない。 綿々皇統を぀ないでいるが倩䞋の実暩は埳川幕府に握られおいるず圓時の実情を正確に把握しおいる。さらに日本の宗教にも觊れ叀代から 来た仏教があり仏教界ではいろいろな宗掟があるずいっおいる。曎に仏教に぀いおは、鎌倉時代の新興宗教のこずをいっおいるのかそれ以前の南郜宗教のこずか いろいろ意芋がでる。キリスト教がもたらされたが1637幎(島原の乱)は倚くの宗埒䞀二癟䞇が殺されたずいう蚘述に䞀同疑問を呈す。 圓時江戞の人口は100䞇に満たなかったずいう意芋がある(江戞䞭期は100䞇ぐらい)。ロシア、むギリス、ポルトガル、スペむン、オランダの 囜情を述べ宗教抜きでオランダ人が出島に来お倚いに利益を埗たこずが曞かれおいる。最埌にかかれおいる森氏ずは誰かずいう議論になる。圓時のオランダ語はドむツ語ず類䌌しおいたためドむツ語ができるひずもかなりいたようで、 もしかしたら森ゎロりではないかずいう意芋がでた。

2024幎10月06日
参加9名

茪読した頁 1517

初線 14節 (八月)

「日本考略」は嘉氞3幎積翆軒蔵が曞いたが元はドむツ語で曞かれおいたものをオランダ語に翻蚳しこれを日本語に翻蚳した文章である。 圓時の西欧人が極東の極小囜日本をどのように認識しおいたのかが分かる興味深い内容である。非垞に正確でなんの目的で曞かれたのか意芋がでたが怍民地化よりも 通商がメむンではなかったかに行き぀く。地理䞊の説明も詳しく本州で座の掻火山があったずあるが富士山、浅間山、他は䜕ず次回の宿題になる。日本人の気質は聡明、英敏だが奜色甚だしいの衚珟に䞀同笑っおしたう (混济、浮䞖絵の枕絵のこずか)。政治圢態に぀いお宗教䞻ず行政䞻の2王があるずいう衚珟で倩皇のこずに぀いお深堀がある。 倩皇ずいう蚀葉は埌の人が぀けたのもので孝明倩皇の父から぀けられたずいう説ず、すでに文献に茉っおいるずいう論がでたがこれも次回の宿題になる。

2024幎08月04日
参加11名

茪読した頁 1314

初線 12節 (八月)

品川台堎の普請、及び係り圹人(八月) を党員で音読しおから語圙の説明をする。幕府はペリヌが去っおから沿岞の防備のため䞉浊半島から江戞湟䞊びに 房総半島沿岞をさらに固めるようにお觊れを出す。この地域は前から䌚接藩、川越藩、忍藩、圊根藩が固めおいたがペリヌがやすやすず江戞湟に䟵入しおきたので 江戞湟呚蟺は譜代の藩、房総、䞉浊半島は倖様の藩が防埡するように配眮替えをする。この時配眮換えの文章で䞊屋敷が出おきたが→かみやしきでなく あげ屋敷 ず読むず蟻耄があった。さらに海の䞭に台堎を築くずいう難工事だったが䜜事方の倧棟梁 平内倧隅 の指揮のもず品川沖に12368台堎が完成する。この人物は垌代の算術家でも あったため短期間に完成するこずができた。この圓時の日本の算術は䞖界トップクラスで特に幟䜕孊は抜矀に秀でおいた。ペリヌも日本の技術力に驚いおいたこずが 蚘録に残っおいる。この䜜事のために参勀亀代のルヌトも倉曎され倚くの劎働者が駆り出された。このころから幕府も優秀な人物(勝海舟、江川倪郎巊衛門、川路聖護、 䞭島䞉郎助、ゞョン䞇次郎ら)を登甚するようになった。次回はこのこずを念頭に入れおペリヌず日本政府の駆け匕きが行われる経過を孊習する。

2024幎07月07日
参加13名

茪読した頁 1213

初線 1011節 (六・䞃月)

䞡囜の莈答品(六月)6月11日浊賀奉行所より来舶ぞ被送品 の文章を音読しおから説明がある。通史の銙山栄巊衛門に床々䞖話になったのでアメリカ偎から莈答品があったが 圌は囜犁なので受け取るわけにはいかないず固蟞したがペリヌは盞互䞻矩なのでもし受け取らないならばアメリカ偎も受け取らないずいうやりずりがあった。 ナニサンハンりぞむンず申す極䞊の酒は果たしおどんなものかいろいろ意芋がでる。「ペリヌ提督日本遠埁蚘」「ペリヌ日本遠埁随行蚘」「倪平幎衚録」 「続通信党芧類」を比范しおみるず倚少の差異があるが真実は劂䜕に本文䞭に はず堎 にお莈答品は焌き捚おたずあるが真実はどうだったかいろいろな意芋がでる。11 明星の出珟(7月)党員で音読埌解説がある。ペリヌが垰った埌西から西北西の間に圗星が芋られたがこれは吉事だろうずいう人がいるが 文章の「誰か吉事ずハ思ハれん」は凶事ず解釈するべきだずいう意芋がある。1853幎ドむツの倩文孊者が発芋したすい星で京郜土埡門家も芳枬蚘録が残っおいる。

2024幎06月02日
参加9名

茪読した頁 䞃九節(六月) 12ペヌゞ

初線 䞃九節 (六月)

7.囜曞を手亀する䌚合の日皋に぀いお、ペリヌ提督の口䞊、8.合衆囜海軍提督ペリヌからの曞簡 囜曞に察する回答に぀いお .浊賀奉行所よりペリヌあおの曞簡 囜曞受け取りに぀いお の語圙の説明の埌内容に぀いおの解説がある。"浊賀枯においお曞す" ず "浊賀枯においお謹癜す" ず2通りの曞き方があるのはなぜずいう疑問に察しお 様々な意芋が出る。さらに西暊ず和暊の関係を圓時の人は理解しおいたのかの疑問も出る。9.の文章では、前曞きは藀間柳庵の蚘述があり本文は倚分文字も楷曞で䞁寧に 曞かれおいるので手に入れた文曞を曞き写したず掚枬する(圓時は写本するより方法がなかったから)。 この文章は非垞に高飛車な衚珟であるずいう意芋がでたが原文(英文)を再床チェックするこずになる。

2024幎05月05日
参加8名

ペリヌ来航時たでの時代背景を理解するこずが倧切であるずの芋地から1825幎の異囜船打払什から話は始たる。 䞭囜でアヘン戊争が始たり幕府もこれによる危機感から薪氎絊䞎什にシフトする。䞀方ペヌロッパではむギリス、フランスが産業革呜により怍民地政策を 匷化しお東アゞアぞず勢力を延ばし日本もタヌゲットにされるがクリミア戊争による極東進出がもた぀く間隙を぀いおアメリカが日本を狙う。軜工業の産業革呜を経ずに 重工業から出発したアメリカはメキシコ戊争を勝ち抜きカリフォルニアで金鉱が発芋されお囜力が増し倪平掋を支配するようになる。䞭囜垂堎をタヌゲットするための 起点ずしお日本が暙的になるずいう背景を理解した。そのような時に薪氎を求めおアメリカは友奜的に日本に開囜をせたる。日本ず関係あるオランダは産業革呜に遅れ ネヌデルランドずベルギヌに分裂しお脱萜。幕末の日本は冬凍結しない湊を求めお南䞋するロシア、むギリス(薩摩、長州)フランス(幕府)が重芁な係りを持぀ようになる。次回はこのこずを念頭に入れおペリヌず日本政府の駆け匕きが行われる経過を孊習する。

2024幎04月07日
参加12名

茪読した頁 10

初線 六節 合衆囜氎垫提督ペリヌより日本囜将軍ぞの䞊曞 (六月)

前回の続きを読む。語圙の解説がありこの文はオランダ語からの蚳文であるこずが刀った。4日間で蚳した圓時の通詞の胜力に䞀同感嘆する。箕䜜阮甫が賀民→難民ずしお 初めお䜿ったこずが確認された。さらに藀間柳庵が頭泚で欠文があるので埌補君を埅぀ずいっおいる。圓時ずしおは最新なニュヌス゜ヌスを手に入れたからだろう。 圓時のニュヌスの䌝達力は実に早く、長尟村鈎朚藀助さんの日蚘の玹介がなされた。藀岡屋日蚘にしろ江戞の人々は奜奇心旺盛で毎日を楜しく暮らしおいた様が想像された。ペリヌは来日前に幕府ず朝廷の関係を理解しおいたのかずいう話になり各自が意芋をのべたがペリヌは来日しおだんだん理解しおいったのではないかずいう意芋があった。 原文では埌半に宗教的教矩を叞る゚ンペラヌずいう蚀葉が出おくので刀断できるが来日前シヌボルトの日本蚘をよく読んでいたこずがわかる。

2024幎03月03日
参加12名

茪読した頁 10

初線 六節 合衆囜氎垫提督ペリヌより日本囜将軍ぞの䞊曞 (六月)

六節を音読しお難しい語圙の解説をする。このずきペリヌは東むンド艊隊の倖臣だったが東むンド、支那、日本海を支配する提督のように地䜍を 倧きくしおいるこずから、はじめからペリヌは日本囜に察しお嚁圧的な態床に出おいたずいう意芋あり。タむトルには日本囜将軍ずなっおいるが 文䞭では日本囜垝殿䞋になっおいるがこれは誰をさしおいるのかが議論になる。ペリヌは来日前たでシヌボルトの曞いた日本に関する情報をよく読んでいたので 将軍ず倩皇がいたこずはしっおいたからこの殿䞋は倩皇であろうずいう意芋もある。しかし圓時のフランス、むギリスはただ日本の支配者は将軍であった (倩皇の存圚は知っおいたがあたり関心を瀺しおいない)ので埳川将軍のこずを指しおいるのではずいう意芋もあり次回の宿題になる。このずころ掻発な意芋が飛び亀うのでこの時代に関心のある方の参加をお埅ちしおおりたす。

2024幎02月04日
参加10名

茪読した頁 10

初線 五節 合衆囜倧統領の曞簡、氎垫提督ペリヌぞ党暩委任の旚

たず難しい甚語の説明があり、囜曞を蚗したペリヌの人柄を説明し信頌に倀する人物であるず説明する内容の文曞を読んだ。 なぜこれを持っおきたかはいろいろ議論がでたがロシアず違っおアメリカは

2023幎12月3日
参加7名
特別䌁画ずしおフィヌルドワヌクを実斜

本幎床最埌の茪読䌚は珟地芋孊䌚を行いたした。倩候に恵たれ7名の参加者はJR久里浜駅に10時に集合しおからペリヌ公園に向かっお歩き出したした。 途䞭銀杏の黄葉や朚々の玅葉を眺めながら20分近く歩き、日本の歎史公園100遞に遞ばれおいるペリヌ公園ではペリヌ䞊陞蚘念碑や真っ癜い碇のモニュメントが 私たちを迎えおくれたした。蚘念通入り口前には貫犄豊かな戞田䌊豆守の胞像が、階正面にはゞオラマ暡型がありたした。ペリヌ自身の説明で圓時の浊賀ず久里浜の 地理関係がよく理解できるようになっおいたす。階にはペリヌ䞊陞にた぀わる貎重な歎史的資料が展瀺されおいたした。䞁床藀間柳庵の資料を読んでいるので ハむネのペリヌ䞊陞図や芪曞調印図は倧倉参考になりたした。倧和守の陣屋、柳庵が黒船を芋た山や海防台堎なども䞀目で分かりたした。その埌歩いお開囜橋から浊賀行のバスに乗り燈明堂で䞋車。ここは圓時海防最前線の台堎が築かれた堎所であるず同時に凊刑堎も兌ねおいたようです。 倪陜に照らされお遠くに癜波がキラキラ茝く青い海を芋ながらランチタむムです。 燈明台から急な坂を息を切らしながら千代ケ厎砲台跡たで登りたした。ここは江戞時代埌期に䌚接藩によっお䜜られた砲台の䞀぀で明治25幎から28幎に かけお陞軍によっお建蚭されたした。ボランティアの説明で砲台、地䞋斜蚭、匟薬庫跡、貯氎所など圓時超1玚の技術を駆逐した建物を芋孊したした。地䞊からは すぐ近くに房総半島の鋞山や里芋八犬䌝に出おくる山々が芋られペリヌ来航時ここがどんなに重芁な堎所だったかが実感できたした。 じっくり芋孊したので浊賀芋孊は次回のお楜しみにずっおおき、各自倧倉充実した研修をかみしめお3時過ぎに久里浜行のバスに乗車したした。

2023幎11月5日
参加8名

茪読した頁 810

初線 四節 合衆囜倧統領より日本囜将軍宛曞簡

フィルモア倧統領から日本囜将軍に宛おた囜曞を解読する。圓時のアメリカは捕鯚のため倪平掋を越えお日本近海たで進出しおいた。挂流員の受け枡しや氎、食料、石炭などの和芪の亀易を垌望しおいた。 そのために氎垫提督ヘルリを遣わしたず自囜の自慢話を蚀ったり決しお戊いを望んでいないこずが曞かれおいる。 問題になったのは原文は英文であったが圓時の通詞(通蚳者)はオランダ語ず䞭囜語だけであったのでその䜜業は耇雑困難なものであった。 日本語→オランダ語→英語、日本語→䞭囜語→オランダ語→英語 どのようにしたのかは次回たでの宿題になる。

2023幎10月1日
参加10名

茪読した頁 8

初線 䞉節 善五郎の浊賀実地芋聞蚘、及びペリヌ䞊陞の状況 (六月)

ペリヌ艊隊が2日に来航したこずを知った柳庵は、藀沢の友人ずずもに7日西浊賀に出向き高台より遠望で艊隊を確認し、蒞気船の様を「雪䞭城郭」ず蚘しおいたす。 浊賀の町は混乱し、家財道具を垂倖ぞ送り出す様が甚だしく、蒞気のさたに怖れ取りあえず8日倜曎に垰っおいたす。そのため翌9日の幕府の防備ずペリヌ䞊陞時の様子を倚聞ずしお次のように蚘録。「ペリヌ艊隊のいる久里浜は圊根藩2,300䜙(藩䞻井䌊掃郚頭盎匌)、 川越藩1,700䜙名(戞田誠䞞)ず川越藩加勢千人(藩䞻戞田采女)が譊護。倧将は錊繍の陣矜織を着甚、士卒は陣笠に癜たすきをかけ、抜身の槍に火瞄銃の鉄砲を携行。 䞀方、アメリカ人は480人が18艘で䞊陞、行列は60人ず぀5人1組の隊列ずなり8組。総銖2人は18人を巊右に随行し、音楜隊に応じお垷幕にお面謁。 冠頂異圢の瀌服で筺䞭には奉曞。」音読埌、時代背景、語句、登堎人物の詳现、囜曞受取の経緯や䞡者の反応、尊皇攘倷ぞの動きに぀いお、担圓者の資料をもずに話合いたしたが、終了時間ずなったため次月に持ち越しです。

参考資料 「藀沢垂枡内にある犏原家に぀いお」

犏原家長屋門解䜓移築修理報告曞の情報提䟛。枡内の犏原家は「新線盞暡颚土蚘皿」で玹介されおいる旧家。枡内村小名の嶺枡内の名䞻を務めおいる。江戞時代末期には高䞻・高嶺父子が実地調査し線纂した図絵圢匏の「盞䞭留恩蚘畧」は有名。 この犏原家の唯䞀残る長屋門倩保3幎(1832)が藀沢垂に寄莈され、藀沢垂指定重芁文化財ずしお新林公園に移築。保存修理にあたった藀沢垂教育委員䌚が解䜓修理した際の建築物の抂芁ずその事業の報告がある。

2023幎9月3日
参加11名

茪読した頁 67

初線 二節 異囜船来航ず海岞防備の䜓制 (六月)

嘉氞6幎(1853幎)6月2日浊賀にペリヌ艊隊が来航しおご奉行所数艘が黒船を取り囲み内海䞀垯は防備の町になりたした。 盞䞭留恩蚘略付録で海岞防備、台堎建蚭のこずを少し孊習したした(過去の報告)が今回はさらに詳しく40数名の人物が出おきたす。1853幎の浊賀から江戞内海の各藩蚭眮図ず察比させながら柳庵がこのような情報をどのようにしお手に入れたのか話し合われたした。『藀岡屋日蚘』などから圓時はかなり正確な情報を江戞垂民は手にいれおいたようです。 (それには盞圓な銭が行き来したようですが)異囜からの圧力に察しお䞀臎団結した藩䞻たちですがわずか幎埌には敵味方に分裂しおしたうずは圓の本人達も考えなかったでしょう。 倪平ずは裏腹の激動の幕末の到来です。今埌の展開が楜しみです。

2023幎8月6日
参加9名

茪読した頁 35

初線 䞀節 小田原倧地震 附・戯䜜歊鑑 (嘉氞六幎二月)

藀間柳庵の「倪平幎衚録」7線の党䜓像を共有したあず、午前ず同じように党員で文章を声に出しお読む。小田原倧地震ずそれに関わる戯䜜歊鑑がある。圓時このような歊鑑が流行しおいたようで小田原藩を小俵家ずパロデむ化しおある。 絵は藀間自ら暡写したものがあり䞀぀䞀぀読み解くず笑っおしたうものが倚い。小田原地震は70幎呚期で襲っおくるようで嘉氞6幎2月の地震では東海道がしばらく通行䞍通だった。 パロデむの解読は各自するこずにしお、予定にない第2節に入り嘉氞6幎6月のペリヌ来航の箇所に入る。春に読み終えた盞䞭留恩蚘略の付録の郚分ず重なるので埩習しながら海防に圓たった藩䞻の説明があり残りは次回にたわすこずになった。その倖、改元に぀いおの説明もあり党員玍埗する。

2023幎7月2日
参加9名

『倪平幎衚録』は藀間柳庵が嘉氞6幎の黒船来航から明治5幎たでおよそ20幎間にわたる政治、倖亀、瀟䌚情勢を敎理しお個人的な䜓隓を蚘録した倧倉貎重な資料です。 歎史は支配者芖線で曞かれるのが䞀般的ですが、この本は蟲民で䞀方廻船業を営む茅ヶ厎の藀間家の名䞻の生きざたが読み取れる蚘録です。著者に぀いおの説明があり圌が生きおいた時代背景が詳しく解説されたした。たた地誌に曞かれた圓時の柳島の地圢や盞暡川の䜍眮が新線盞暡囜颚土蚘皿の絵や 明治15幎の枬量図を察比しお川の流れが倧きく倉わった様子がわかりたした。この図からも平塚の湊より柳島の湊のほうが江戞に幎貢米をはこびだす利点がわかり 五倧力船を䞉艘も所有しおいた藀間家の繁盛さがよく理解できたした。ただ柳庵個人ずしお芋た時䞉歳で生母ず別れ祖母に育おられさらに嚘に先立たれた境遇は あたり幞せだったように思われず、激動の瀟䌚情勢のなかで埳川幕府の厩壊を肌で感じ晩幎は仕事にも熱が入らず趣味の䞖界が唯䞀の生きがいだったのかなずいう意芋が 倚くありたした。本のタむトルの倪平はアむロニィが含んでいるのかなずいう意芋もありたした。

お問い合わせ

Contact

圓䌚に関するご質問・ご感想などをお受けしおおりたす。

お気軜にお問い合わせください。

お問い合わせ

䌚員募集

Join us

4月翌幎3月

幎床䌚費

ï¿¥ 3,500

(11月以降入䌚の方は、その幎床内は1,500円。)

以䞋、䌚員限定の特兞を埗られたす。

  • 講挔䌚は事前に申し蟌み䞍芁で参加可胜。
  • 䌚報バックナンバヌや資料ぞのアクセス暩
  • 远加家族䌚員は1名様たで、幎床䌚費500円
お申し蟌み 詳现を芋る