杉山和一と江の島弁才天
- 投稿日
- 執筆者
- 中岡裕志
- 掲載元
- ミニだより120号
藤沢市鍼灸・マッサージ会が中心になって、令和2年(2020)生誕410年記念として江の島に「杉山和一総検校之像」を建立した。
藤沢市史によると、検校(けんぎょう)・杉山和一(慶長15年・1610年~元禄7年・1694年)は、伊勢の津の出身で、父は杉山権右衛門重政といい、関ヶ原の合戦以来抜群の手柄を立てた人といわれる。藤堂和泉守高虎につかえて、忠勤を励み、母は尾張大納言の家臣であった稲富伊賀守祐直の娘で、その長子として生まれ、幼名を養慶と称した。
5歳の時不幸にして失明し、慈母の情けによって生育し、教養を積み、17歳の春を迎えた養慶は、意を決して家を重之に譲り、単身杖をついて江戸に登った。
そこで鍼医(はりい)山瀨琢一の門に入って鍼術(しんじゅつ)を学び、先規に従って当講座に入って名を和一と改めた。石原保秀の著した『皇漢医学及び導引の史的考察』によれば、「性魯純にして技進まず、ついにその逐(お)ふところとなる」。和一は発憤し、江の島弁才天に参籠した。

古来、江の島弁才天は、安芸の宮島、近江の竹生島と並び日本三大弁才天の一つに数えられるほか、七福神の紅一点としても人々に信仰され、海の神、水の神のほかに幸福、財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神と仰がれていた。
断食(だんじき)すること三七日(21日間のこと)、満願の日、福石の所で趺坐(ふざ)九拝していたところ、江の島弁才天から管(くだ)と鍼(はり)を授かったのである。
春来る和一授かる管と鍼
和一が将軍家綱に謁見したのは延宝年中のことで、綱吉の病気をなおした功績により、
宅を本所一ツ目にうけ、元禄5年(1692年)には関東惣録検校となり、鍼治講習所を設けて、後身の指導にもあたっている。このような栄達の御礼のため、江の島下の宮の社殿を改修し、その傍らに護摩堂を建て、次いで、丸山に三重塔を奉献した。また、江の島弁才天に対する報賽(ほうさい)の一つとして、藤沢宿から江の島への沿道に「江の島道しるべ」を48基建てたという。現存する基は、わずか11基である。

正月の本所一ツ目朱の鳥居
江島杉山神社は、JR総武線「両国駅」西口を降りて7分。東京都墨田区千歳1丁目にある。閑静な所で、近くに鼠小僧之墓や吉良邸跡がある。駅近くには国技館があり、たまたま、相撲部屋の前の道路で、お相撲さんが股割りをしていた。
今日もまた、行きつけの治療院でマッサージを施してもらう。気持ちよくて、いつのまにか眠っているのである。